始皇帝陵
秦の始皇帝陵は、中国の初代皇帝始皇帝の陸墓。紀元前3世紀、7つの国が覇を競い合った戦乱の時代を制して、中国に巨大な統一国家を打ち立てた秦。中国史上、最初の皇帝となった秦の「始皇帝」が、70万人の労働力と40年の歳月をかけて作り上げた巨大な陵が、中国の西安郊外に残されています。1974年、この始皇帝陵から1kmほど離れた場所で偶然、地中に埋まった素焼きの像が発見され、地下5メートルの巨大な地下空間に、おびただしい数の兵士や馬の素焼きの像が埋まっていることがわかったのです。「兵馬俑」は始皇帝陵から伸びる道に沿って配置されており、巨大な陵の一部を成していました。
「シリーズ世界遺産100」では、20世紀最大の発見と言われた兵馬俑を紹介します。中国統一を果たした強大な秦軍を克明に模して作られた兵馬俑からは、当時の軍の陣形や民族構成までも見て取れます。不老不死の命を求めてやまなかった始皇帝は、この地下軍団を率いて黄泉の世界をも支配しようとしていたのでしょうか。
なお、副葬坑の兵馬俑坑も併せて指定。秦の始皇帝陵は、西安市内から東へ30kmほど、臨潼県の県城東方5kmの所にある。更に1.5km東に兵馬俑坑がある。西安から河南省に抜ける高速道路が完成したため、兵馬俑坑へのアクセスも非常に良くなった。また空港からも、環状線が開通したために、市内を避けて、直接訪れることができる。
始皇帝陵の伝説
秦の始皇帝が、死後の自分に仕える「軍隊」として、これらの兵士や馬車を作らせたのである。
最初に発見された穴にはなんと6000体以上もの兵士像があったが、なんとまだこれ以上発見される可能性があるとのこと。
実は、兵馬俑そのものは墓ではない。始皇帝の墓「始皇帝陵」は、兵馬俑から1.5キロメートルほど離れたところにあるが、まだ発掘調査がされていない。中国の研究体制が整っていなかったということもあるようだが、司馬遷の「史記」に書いてあることが本当ならば、この墓、うかつに掘り返せないすごい墓なのである。
※地下に銅板を敷いて、宮殿や楼閣を築いた
※自動発射の弓を置いて、忍び込もうとする者を射殺した
※水銀を流して河や海をかたどった。
※天井には、宝石で描かれた星がまたたいていた。
長いことこれは伝説とされてきたが、2003年11月、最新の科学技術を駆使した調査により、実際始皇帝陵の中に宮殿のような空間があること、水銀の反応があることなどが確認された。
果たして司馬遷が書き残したとおりの地下宮殿が存在するのか、そしてもしかすると始皇帝の遺体はまだそこに? いやがうえにも期待が高まっているのである。
不老不死の薬
不老不死の薬を求めて日本へ
不老不死の薬の存在を信じていた始皇帝は、徐福という男に命じて、蓬莱という場所にその薬を探しに行かせた。徐福は結局戻ることがなかったのだが、なぜか彼が日本に渡ってきたという伝説が各地で残っている。
和歌山県-熊野:徐福はここを永住の地とし、墓を残した。
山梨県-富士吉田:徐福は不死山=富士山で生涯を終えたとの伝説が。
佐賀県-有明海:徐福上陸の地とされている。近くで温泉を発見したとの伝説も。
今では「中国徐福会」「香港徐福会」といった研究団体が、これらの地域を訪れにくるとか。徐福が本当に日本に来たかどうかは別として、現代の国際交流活動に貢献していることは間違いない。
始皇帝陵の構造
秦の始皇帝は、陜西省西安市の東35kmの臨潼県にあり、中国史上初めての皇帝の陵園である。1987年、「世界遺産目録」に登録された。
秦の始皇帝陵の土台の部分は四角形に近い形をし、斗をかぶせた格好で、土をつき固めて築造した。陵の高さは76mもあったが、いまはその跡しか残っていない。陵墓の地下宮殿の真中は秦の始皇帝の柩を納めるところである。陵墓の周りには副葬墓などの墓が400以上あり、その面積は55.25km2もある。主な副葬坑は、銅車馬坑、珍禽異獣坑、馬厩坑および兵馬俑坑などがある。これまでに5万余点の重要な歴史文物が出土した。1980年に発掘されて出土した2台1組の大型の彩色の絵が描いてある銅車馬は、これまで中国で発見された最も大きく、装飾が最も綺麗で、構造や車に馬をつなぐ様子が真に迫り、最も整った古代の銅車馬である。
始皇帝陵の案内
所在地 : 西安市臨潼区
開館時間 : 8:00~18:00
休館日 : なし
電話:029-3912874
交通:バス306、307路「秦始皇帝陵」下車