市の東南部、楽遊原にあり、582年に創建された。元の名前はは霊感寺といったが、711年に青龍寺と改名された。唐の時代にはかなり有名な寺院であったようで、日本との縁も深い。著名な「入唐八家」のうち、六名の僧侶がここで仏教を学んだ。最も有名なのは空海である。空海はここで恵果法師を師として、密宗を伝習した。1981年、日本仏教界は青龍寺の境内に、空海記念堂と空海記念塔を建立した。
中でも空海が有名である。空海はここで恵果法師に真言密教について教えを請い、また苦労して中国仏教密宗文化を学び、漢学についても研鑚を積んだ。彼は博学で、造詣も深く、仏教、詩、詞、サンスクリット、書などについても成果をあげた。806年、多数の仏教経典や書籍を携えて帰国。奈良の東大寺で日本密宗真言宗を開いた。道場を開いて、密教を広め、日本留学僧の中でも数少ない仏学大師となり、「東密」の開祖となった。1982年、青龍寺には「空海記念碑」が建てられた。
前身は隋の開皇2年(582)に創建された霊感寺。文帝の長安城造営の際、予定地に散在する古墓を城街区へ移送。その鎮魂のために楽遊原の新昌坊内に創建した。
唐初の武徳4年(621)に廃せられる。
高宗の龍朔2年(662)太宗の城陽公主が『観音経』 の霊験で病が治癒したところから、廃寺跡に「観音寺」が創建された。
景雲2年(711)に青龍寺と改称。新昌坊が城内東の端に位置することから、四神の東方を守護する青龍があてられたと考えられている。
恵果は不空三蔵の高弟であった。不空は密教を鎮護国家仏教として位置づけたため、青龍寺という名称はなるほどと思わせる。
この6年後の717年、遣唐使の阿倍仲麻呂と井真成、入唐する。
724年、善無畏三蔵が請来した『大日経』が漢訳される。空海は大和の久米寺でこの経に出あい、入唐を決意する。
746年、不空三蔵が『金剛頂経』を中国に請来した。日本へ請来したのはもちろん、空海である。
ここらへんの密教全盛期に空海が青龍寺入りする。805年6月のことである。
ところが、その40年後の会昌5年(845)、武宗による廃仏令に遭い、青龍寺もその例外ではなかった。慈恩寺、薦福寺、西
明寺、荘厳寺の四寺は特別に難を逃れることができた。
その翌年に廃仏令は撤廃され、「護国寺」として復活、その後青龍寺に戻る。
唐の滅亡、長安寺の廃墟化で青龍寺も廃寺。ここまで何度となく廃寺、復活を繰り返してきたわけだ。
樂遊原 李商隠 (812-858年)
向晩意不適。(晩に向んとして意適わず駆車登古原)
驱车登古原。(車を駆りて古原に登る)
夕陽無限好。(夕陽無限に好し)
只是近黄昏。(只だ是れ黄昏に近し)
日暮れに近づくにつれて私の心は何故となく苛立つ。
馬車を命じて郊外に出て西の方、楽遊原に登ってみた。
陵があちこちにある歴史古き高原は今しも夕焼けに染まり、落日は言い知れぬ光に輝ている。
その美しさは夕闇に迫る短い時間の輝きに過ぎない、やがて黄昏の薄闇へと近づいてゆく。
所在地 : 西安市南郊外
開館時間 : 8:00~18:00
休館日 : なし
電話:029-85227811
交通:タクシー又は市内バス
ツアーをオーダーメイドする
|
柔軟性を最大限に活用
|
ご満足いただけることを保証
|
自分の中国物語を生きる
|
住所: 中国広西桂林七星区七星路創意産業園6棟4階