岳陽は湖南省にあり、2500余りの歴史をもっている歴史的な名城です。昔、岳陽は巴丘、巴陵、岳州と呼ばれ、揚子江に繋がる洞庭湖を抱え、独特な地理ゆえに、三国時代には呉国が曹操の南進を防ぐ要衝となりました。
軍事家がここで変化に富んだ「三国志」を上演し、三国志の名将魯粛、周瑜、黄盖は、岳陽の歴史上に永遠にその名を残しています。
岳陽には三国の遺跡がたくさんありますが、以下に有名な遺跡をご紹介致します。
閲軍楼(岳陽楼)
後漢の末期、孫権側の名将であった魯粛は命令を受けて巴丘を守り、水軍を訓練し、洞庭湖と揚子江を接する険要場所に巴丘古城を建てました。建安二十年(紀元215年)、水軍の訓練と閲兵のために、魯粛は巴陵山の上に閲軍楼を築きました。閲軍楼は川沿いに建てられており、登って眺めると、洞庭湖の全景および湖中を一望に収めることができ、気勢には比類のものはありません。この閲軍楼が岳陽の前身であるといわれています。閲軍楼は、両晋、南北朝時代に巴陵城楼と呼ばれていましたが、唐代に入ると初めて岳陽楼と呼ばれるようになり、黄鶴楼、滕王閣と共に「江南三大名楼」と美称されています。現在の岳陽楼(がくようろう)は1983年の復元建造で形は昔のまま保存されている。
魯粛墓
岳陽楼から1㎞離れている魯粛墓は、3517工場の南側にあります。墓は丘のように積み上げられ、高さが8m、直径が32m、敷地面積は800㎡に及びます。周りに石の手すりがあり、厳かで重厚であり、尊敬の念を起こさせます。墓の前に石碑1つが立てられており、上には「呉大夫魯公粛墓」と書いてあります。清の光緒年間に建てられたものだそうです。両側に石段があり、墓の頂上まで登ることができて、頂上の小さな東屋は、観光客の休憩所です。墓は1984年に再建されたものです。
小喬墓
小喬とは、三国時代における呉の都督であった周瑜の妻であり、亡くなった後に岳陽で埋葬されました。清の光緒年間にできた『巴陵県誌』には、「呉孫策攻皖、得喬公二女、自納大喬、而以小喬帰周瑜、後卒葬于此。」と書いてあります。墓は元々今の岳陽市第一中学、3517工場の隣接一帯にありますが、そこは三国の周瑜の軍府、墓の所在地は軍府の庭であり、静寂な環境で花も木も茂っていたと伝えられています。後に戦争のため、墓は戦乱の中で壊れましたが、1993年に墓は岳陽楼の北側に移されました。