華容古道は湖北省荊州市監利県西南12キロの上車湾鎮曹橋村にあります。つまり曹橋から毛家口までの小路で、長さが7.5キロです。監利が古代「華容」と呼ばれ、もとの華容県は現在の監利県北30キロのところにあります。『資治通鑑』によると、この道が華容県に通じるということで華容道と名づけられました。古道の入口の汴河郷太平橋のそばに石碑があり、石碑に「華容古道」という四文字を刻んであります。
華容古道と三国
紀元208年、曹操は荊州を手中にした後、休むことなく20数万の水陸の大軍を率い長江に沿って東に向かいました。 劉備と孫権を一挙に消滅させ天下統一をするという野望を抱いていた曹操だが、勝利に有頂天になり、赤壁の戦いでは孫権、劉備連合軍から火攻めに遭い大打撃を受け華容道を経て江陵に退却しました。監利はかつて雲夢沢(今の湖北江漢平原)に属し、沼地が多く、曹操の兵が草で沼地を埋めて、騎兵が通過できました。しかし、高齢、身障者などがぬかるみにはまって、あるいは孫権、劉備の兵から殺され、死者が多かったです。華容道を抜ければ曹仁の待つ城まで戻れます。
しかし、華容道では武神と呼ばれる関羽が曹操を待ち伏せしていました。
曹操に恩義のある関羽は,静かに道を開け、これで恩義は返したと去っていきました。
華容古道のスポット
現在道中には子龍崗、葫芦口、救曹田、曹鞭港、鶏冠溝、放曹坂などの遺跡があります。
子龍崗
子龍崗は「楊林山」ともいわれ、かつて趙雲が兵を率いて曹操の軍隊を奇襲したところだと伝えられています。
葫芦口
葫芦口は白螺磯にあり、地勢が険しく、敵の侵入防止に都合がよく、昔は華容の交通の要所で、張飛が兵を率いてここで曹操の軍隊を待ち伏せたということです。
救曹田
曹鞭港は太平街から約500メートルのところにあり、ここ通過するのが難しくて、曹操も馬の鞭を捨てて徒歩で進むしかないということで、この名前になりました。
鶏冠溝
鶏冠溝は今監利毛家口あたりにあり、華容古道の沼地を出るところに位置し、そばには灌木が茂っている傾斜面があり、すなわち放曹坂です。諸葛亮は関羽が兵を率いてここで曹操を捕えるように命令し、曹操が関羽に旧恩を施したことで気がかりで、関羽が溝前で鶏冠を切って、曹操を放せばこの鶏のように「冠(関)の頭」を切ると誓ったということです。それで、鶏冠溝と呼ばれます。
華容古道についての論争
もう一つの説は、華容古道が湖南省岳陽市華容県桃花山倒馬崖の山道にあります。三つの要因があります。一つは曹操が巴丘湖から岸に上がって江陵へ向かって、100キロ近くの桃花山華容道は騎兵がずば優秀な曹軍隊の通行に好都合です。二つ目は桃花山華容道が巴陵(今岳陽で)から江陵までの地理距離が最も近い所に位置します。三つ目はここの地形が『三国志』中の描写に非常によく似ています。