荊州は三国文化の発祥地で、中国で有名な歴史的な名城です。魏、蜀、呉の三国時代に、ここは軍事家なら必ず取ろうとした要地でした。『三国演義』の120回の中に荊州は72回も出たそうです。「劉備借荊州(劉備荊州を借りる)」、「関羽大意失荊州(関羽が不注意で荊州を失う)」など人口に膾炙している物語は、この悠久なる歴史を持つ荊州で生まれました。
荊州と三国
三国時代、荊州では天下取りの為の熾烈な争奪戦が繰り広げられました。208年曹操は南下して、劉表の所に身を寄せていた劉備を追撃し当陽で徹底的に潰しましたが、赤壁の戦いでは孫権、劉備連合軍に大打撃を受け、雨と泥の華容道を経て江陵に退却しました。
曹操は曹仁、徐晃らに江陵城を守らせ、自身は許昌に帰りました。周瑜と程普は曹仁と対陣、甘寧に夷陵を占拠させ、さらに呂蒙と周瑜がこれを助けて北岸に陣取り、ついに曹仁は退却し荊州は呉のものとなりました。209年の末、劉備は呉に荊州を借りホウ統を得て四川に入り、諸葛亮、張飛、趙雲、関羽らに荊州を守らせました。215年にホウ統が益州進攻中に亡くなると諸葛亮らは四川に向い、関羽のみが荊州に残りました。
荊州の三国遺跡
荊州には三国の遺跡がどこでも見られるほど数多く、完全に保存されています。話によると、劉備は東南部の公安門に駐屯したそうです。荊州大北門金水橋の外には「得勝街」という街があって、関羽が勝ち戦をしたら必ずこの道を通って戻ったそうです。そのほか、華容古道、点将台、馬跑泉、落冒台、卸甲山、擲甲山などの三国史跡も名を知られている観光名所です。羅貫中の「三国演義」に描かれた歴史物語に基づいて、北湖や古城の自然風景を活かしてデザインされた三国公園は、古めかしくて趣があり、多くの人にとってぜひ訪ねてみたい名勝です。
荊州の関公文化
荊州は昔関羽が駐屯して守った地です。関羽は不注意で荊州を守れなかったが、人柄と業績で中国人のほか、海外にいる華僑にも愛され、「勇敢、仁義、忠義」という関公文化も世の中に広がっています。旧暦で毎年の五月十三日に、国内外の中国人は荊州に殺到し、関羽を偲んでいます。荊州は関公文化の発祥地として、関羽に関わる観光名所が数多く、名高い都市となっています。
荊州関羽祠
「天下一の関羽祠」と呼ばれている荊州関羽祠は荊州古城の卸甲山にあり、明の初期に庶民によって関羽を記念するために建てられ、明清両代の建築スタイルを兼ね備えています。関羽祠は山門、天梯、正殿、祥和殿、誠信殿、馬殿及び関公文化長廊からなっています。中に関羽の銅像を祭っており、関羽を礼拝する最も人気のある聖地です。
荊州関帝廟
荊州関帝廟は荊州古城南門の内に位置しています。三国時代に関羽が荊州に駐屯した時の官邸で、明の洪武帝の二十九年に建立され、清の乾隆の五十三年に修築されました。今は儀門、正殿、三義殿、陳列楼などの古風建築が残されています。
荊州点将台と拍馬山
点将台は荊州城西門の外にある花園村に位置しています。関羽が曹仁を攻める前、兵士を訓練するために築かれた高台です。
点将台は土で積み上げられ、高さは約10メートル、面積は約6600平方メートルとなっています。今、点将台を見渡すと、緑一杯で美しいです。点将台の東北には高さ僅か10メートルの小さな丘があり、拍馬山と呼ばれており、関羽が敵軍を攻める前、兵隊と軍馬を整えた場所でした。点将台と拍馬山は一見したところ、ごく普通な所ですが、関羽の名に恵まれて、世に知られるようになっています。今、西門の外にある将台中学も拍馬村もこの名勝によって命名されました。古来、点将台は三国を偲む名勝です。