剣閣県鄧艾父子墓は四川省剣閣県の県庁所在地から北に10キロの北廟郷孤玉山に位置しています。
鄧艾父子は謀反をたくらんだと濡れ絹を着せられこの地で殺害されました。
墓は土塁で、周囲は黒い石で築かれています。墓の前に、「魏大将軍鄧艾之墓」という八文字が大きく彫刻されています。それに、李申夫の書いた『十三峰書屋全集』で記されていた鄧艾が殺された経緯が細かく彫刻されています。
文革時代、墓穴は掘りかえされ、石で作られた二列に並んでいる墓穴が発見されまし。
2つの墓穴からはそれぞれ棺おけが1つづつ発見され、ぞれぞれ長さ3メートル、幅1.4メートル、高さ1.8メートルで、2つの墓穴の間の距離は2メートル離れていました。
鄧艾墓の右側50m離れているのは鄧艾廟(彰順王廟です。彰順王は鄧艾死後、五代前蜀王建天漢元年からもらえた名前)です。唐代以前から建てはじめ、規模が雄大で、歴代にわたってどんどん増築していき、もっと広くなりました。廟の中に、鄧艾父子の彫像があります。ここ数年、発見された明代弘治八年(1495年)に彫刻された石碑の記載によると、地元の人は大きな災害に遭うたびに祭祀し、災害と戦うためにも祭祀します。中国が成立後、廟は学校に改造されました。その後、学校を改築するために、廟が取り壊されました。現在、正殿しか残ってなくて、北廟郷学校の学生寮として使用されています。
陝西渭南市蒲城県鄧艾衣装塚
蒲城鄧艾墓と鄧公祠の由来
鄧艾が殺された後、彼の家族はばらばらになって逃げ隠れてしまいました。そのうち、関中左馮翊重泉県東河川(現在の蒲城県後阿村)に定住するようになった人がいました。そのあと、一族が続々とこの土地に集まり、とうとう鄧家堡になりました。先祖の鄧艾を追想するため、彼のわずかな遺品を村南卜地に埋め、衣装塚として祭祀するようになりました。
西暦273年、晋武帝は鄧艾の冤罪を晴らし、彼の孫である鄧朗を朗中(六品官)まで抜擢しました。その後、馮翊張郡守と鄧艾一族の人たちは鄧艾を永遠に記念するために、鄧公祠を再建しました。これが蒲城鄧艾墓と鄧公祠の由来なのです。
蒲城鄧艾墓と鄧公祠の現状
鄧公祠は火事にあって壊されたので、現在、墓と石碑しか残されていません。墓は南向きでです。墓の土盛りは逆さまにしたじょうごのように見え、高さが約3.5mで、周囲が約10mです。土の部分に、わずかに残った瓦礫があります。そのほか、墓には石碑が二つあります。一つは前秦苻堅建元三年(西暦367年)三月に作り上げられ、『魏書』が彫刻され、芸術価値のある石碑です。1970年、西安碑林に移転して保存されています(現在、墓には石碑の台しか残されていません)。もう一つは大金承安四年(西暦1199年)十月に作り上げたもので(文字がはっきりしないので、年号は不明確)、現在、依然として墓にそびえ立っています。