上海日本領事館跡は黄浦106号にあります。1871年6月、日本政府は揚子江路に建設しました。そして1911年に現在にところへ移転しました。もともと南北に赤い建物があり、日本人建築家の平野雄三によって設計され、1911年に完成しました。れんが造りの4階建てで南向きのクラシックなスタイルです。左右対称になっており南側にはアーチ型のドアと窓があり、2階と3階は螺旋式階段になっています。真ん中の屋根は長方形で二重のとがったアーチ型になっています。正面玄関の上には繊細な石の彫刻が施された切妻の花があり、梁や柱上や下、手すりなどの細部にも細かな石の彫刻と赤レンガの壁で飾られています。1941年北側の赤い建物は灰色の建物に再建されました。 赤い建物の間には吹き抜けの天井があり、4階建(現在はさらに1階追加)、初期のモダニストの風格があります。中央部分は花崗岩の6本の巨大な柱があり彫刻が施されています。
乍浦路と武进路の所にあります。一瞬見間違えるかのような奇妙な東洋の建物が西本願寺です。はじめ西本願寺は文监师路(今の塘沽路口)に建てられました。光緒32年(1906年)に開院し翌年には中国人への布教が始まりました。1931年に今の乍浦路471号へ移転しました。日本人の岡野重久が設計し、島津製作所が建築を請け負い、総額銀5万両かかりました。この建設については第22代西本願寺貫主、大谷光瑞(1903年〜1914年)が発起し、東京の西本願寺の建築を真似て造ったと言われています。虹口区乍浦路のあたりはかつての日本占領地で周囲には今でも本国寺や東洋ホテルなどの遺跡が残っています。
ここはかつて虹口の日本人移民が参拝に訪れ、僧侶の住まいや遺骨一時保管場所でもありました。1944年に寺の西側に高さ36.6メートルの9階建ての仏舎利塔が建てられました。 しかし抗日戦争の後、塔は壊され、寺院は平和博物館として使用されていました。 今ではモダンなパフォーマンス会場生まれ変わりThe Pearlと呼ばれています。
西本願寺の近くに日本の京都にある日蓮宗の妙覚寺前貫主、旭日苗師が作った日本の本圀寺の別院である日宗宣教会堂があります。1905年に本圀寺と名付けられました。1922年に寺院として建てられました。京都の本院である本圀寺は京都市山科区にある日蓮宗大本山です。
寺院は東洋が融合しており、現在は住居として屋上や手すり、柱といった内部は現在もそのままの状態です。上海では珍しい日本の宗教建築物のひとつです。住民によるとすべての窓はひとつながりになっていて、また今では大きくない小さな3階建ての建物は少し古めかしい感じがします。
上海四川北部路と黄渡路口の東江湾路1号に黄土色の城砦のような建物があります。それが日本海軍特別陸軍司令部旧跡であり、抗日戦争前に日本軍が中国へ侵略した際の大本営です。1924年に建てられ、総面積は6130平方メートル、四方は事務室、倉庫で囲まれており、真ん中に2200平方メートルの練兵場があります。立派な建物で空から見ると海に浮かぶ軍艦のように見えます。抗日戦争の時、ここは日本軍の上海の大本営でした。
六三花園は今西江湾240号にあります。20世紀のはじめ(1907年)に日本人の白石六三郎が経営する日本式の庭園でした。庭園の中には芝生や噴水、日本式の家屋さらには神社までありました。庭園の植物は日本から運んできた桜など赤や緑、白の花がありました。また尾長猿や鹿、鶴、雉などの動物もいました。園内には西洋式の高い建物があり、茶室はありませんでしたがパーティを催すことはできました。日本人の庭園でありながら中国人にも開放されていましたがひとつだけ条件がありました。それは名刺を見せることです。つまり自分は顔がきく人間だということを証明していました。
上海で最も早い時期にできた神社がこの庭園にある諏訪神社です。のちに金毘羅神社、恵比寿神社と一緒になりました。1912年10月に泸上神社に名前が変わり、日本人移民の祭神の場所でした。1932年の一・二八事変で燃えてしまいました。そのため祭事は日本軍が守った小学校の中で執り行われました。1933年、四川路の端に(今の魯迅公園の南斜前)に上海神社及び境内招魂社が再建されました。祭事の場としてまた日本軍の戦死者を祀る場所としての役割がありました。1945年に日本軍が戦敗した後にここも取り壊されました。
六三花園の前身は塘沽路の六三亭です。白石六三郎は長崎の生まれで清朝末期に上海にやってきました。当時、中国の遊女は「唐行婦」と呼ばれ、多くは長崎の人でした。他の所から来た日本人は彼女たちと仲良くなるためにまず長崎弁を勉強しました。白石は上海でまず長崎人が集まる塘沽路にレストランを開き六三庵と名付け、のちに六三亭としました。商売で成功した彼は江湾路に六三花園を造りました。
20世紀のはじめ上海の日本人は急激に増加し、その数は外国人トップになりました。1920年代には吴淞路、南浔路、汉壁礼路(今の汉阳路)、密勒路(今の峨眉路)には商店が立ち並び、ホテルもあり日本人移民の街になっていました。 日本人が集まる虹口区では多くの日本人が投資したホテルができ、その中でも万歳館と豊陽館は有名高級ホテルでした。幸運なことに万歳館と豊陽館の新館は今でも残っています。現在は住宅になっています。万歳館の外観は補修されていますが豊陽館は中も外も壊れてしまっています。
万歳館は1904年に虹口の日本人高官が宿泊できるホテルとして開館しました。現在の闵行路长治路の東側にあります。外観は明治時代の西洋式で中は日本式になっていました。
ここに宿泊に宿泊した最も有名な日本人は芥川龍之介です。1921年3月下旬、芥川龍之介は大阪毎日新聞の記者として上海に派遣されました。闵行路にある日本の豪華ホテルに宿泊しました。ここが芥川が上海で活動した拠点になっています。
芥川は自身の作品「中国旅行記」の中で旅の疲れで上海に着いた2日目に病気になり近くの須藤医院に入院したと書いています。この病院は今でも残っており、商店に連なる住宅になっています。須藤医院は峨眉路108号にあり、1910年に建てられた英国式レンガの建物です。かつて上海には二軒の病院(須藤、里見)がありました。興味深いことにこの医院は芥川だけではなくかの有名な魯迅も肺病でかかったことがあります。須藤五百三は魯迅が信頼していた医者で、亡くなるまで診ていました。
豊陽館本館は1894年に建てられ、1896年に開業しました。赤煉瓦の3階建てで、その後、4階建てに改装されました。店主はかつて東和洋行で働いていた米田藤吉、後に米田藤男(1895年上海生まれ)に継承されました。本館は最初、蘇州河の北側の本館は最初、蘇州河の北側の熙华德路5号(今の长治路)に建てられました。日本人の移民が虹口北部へ拡大するにつれて建物も北へと移動していきました。1923年の日本総領事館の調査によると上海に来た日本人旅行者の中で最も選ばれた宿泊先が豊陽館でした。多くの官僚や商人、文化人などがここに宿泊し、当時は最も有名なホテルでした。現在では本館はもうありませんが、北海宁路に1924年に建てられた新館がまだ残っています。豊陽館新館は海宁路の一流の日本風ホテルでかつての帝国海軍、海員協会、第三軍艦などの指定ホテルで当時の重要な社交場でした。島崎藤村や松田洋右、山田五十鈴、村松梢風などの著名人もここに滞在していました。
ツアーをオーダーメイドする
|
柔軟性を最大限に活用
|
ご満足いただけることを保証
|
自分の中国物語を生きる
|
住所: 中国広西桂林七星区七星路創意産業園6棟4階