頤和園
頤和園は、北京の海淀区西郊外に位置し、市の中心からの距離は12キロほどのところにある、中国に現存する最大の古代庭園(園林)である。1998年12月に、ユネスコの世界文化遺産に登録された。
- 所在地:北京市海淀区宮門前街甲23号
- カテゴリー:公園・宮殿
- 営業時間:4~10月:6:30~20:00(各施設 8:30~17:00)
11~3月:7:00~19:00(各施設9:00~16:00) - 所有時間:3~4時間
アクセス
- 東宮門(宮殿区に近い正門)から入場する場合:地下鉄4号線に乗り、西苑駅C2出口から出ます。または209、330、331、332、346、394、601、608、626、683、690、696、718番バスで「頤和园」駅でおります。
- 新建宮門(十七孔橋に近い南門)から入場する場合:
74、374、437路バスで「頤和园新建宮門」で降ります。
- 北宮門(蘇州街に近い裏門)から入場する場合:地下鉄4号線に乗り、北宮門駅のD出口から出ます。
303、330、331、346、375、384、563、601、608、683、696、697、718、特5、特10路バス「頤和园北宮門」で降ります
- 西宮門から入場する場合は:469、539路バス頤和园西門」駅で降ります。
歴史
頤和園は元々清蔬園と呼ばれ、清代の繁栄期である乾隆年間(1736~1795年)に創建された。乾隆帝は色を好まず、放蕩をきらい、ただ「山水の楽、懐に忘るあたわず」『御制静宜園記』を心情としていた。清蔬園の施工平面図や立体模型は、すべてみずから審査許可して、所管した。清蔬園は乾隆15年(1750年)に着工、15年の歳月を経て、乾隆29年(1764年)に完工した。
乾隆帝が手がけた清蔬園は、歴代皇帝と同様に、その思想と好みによって建造され。乾隆帝は「天人合一、皇帝権力至上の思想」、「長寿不老の神仙思想」、「享楽の思想」を造園思想とした。そのため、清蔬園は歴代皇室の庭園や私家庭園、名山大川、著名な寺院の精華を融合させて、中国の典型的な庭園芸術の代表作となったのである。
頤和園の見所
頤和園は面積290ヘクタール、万寿山や昆明湖などで構成される。園内の各種宮殿や庭園建築には、合わせて3000間(部屋)あまりあり、その用途によって執政、居住、遊覧の三つの活動エリアに分けられた。
昆明湖
昆明湖は元々、北京の西北郊外の泉水を引き、天然湖となしたものだ。乾隆帝が清蔬園を建造したとき、現在の規模へと拡大された。その水面は、頤和園の総面積の4分の3を占め、220ヘクタールに達する。湖上には東堤、西堤、南湖島、十七孔橋などの美しい景観がある。
万寿山
高さ58.59mの万寿山は、頤和園の代表的な風景である。燕山の余脈に属した小山で、その昔、昆明湖拡大のために掘り起こした土が、山の東西両側に積み上げられた。それが対称的でなだらかな山坂をもつ、いまの姿になったのだ。
山の南側は「前山」と呼ばれ。昆明湖畔の「雲輝玉宇」牌坊(鳥居型の門)から始まり、「排雲門」、「二宮門」、「排雲殿」、「徳輝殿」、「仏香閣」を経て、山頂の「智慧海」に至るまで、だんだんと上る中軸線の上に、巨大な代表建築群が配されている。この建築群の中央にある排雲殿は、清の光緒12年(1886年)、慈禧太后(西太后、1835~1908年)の誕生日を祝うため、清国海軍の経費(白銀)を流用して再建したものだ。排雲殿の前方には、排雲門と二宮門があり、その二つの門の間に造られた池には、漢白玉の「金水橋」がかけられている。東西両側には、それぞれ「配殿」と「耳殿」があり、すべての建築には回廊が渡されている。頤和園の中でも、もっとも雄大な建築群だ。
仏香閣
仏香閣は、高さ20mの石製台座の上に建てられ、高さ41m、八角形三階建て、四重のひさしをもつ塔である。堂々とした構えで、頤和園の代表建築であり、シンボルでもある。ここから頤和園全体の景色が、俯瞰できる。排雲殿は絢爛豪華なきらびやかさだ。昆明湖の波はキラキラと輝き、竜王廟の香煙はゆらゆらと立ち上り、東堤、西堤の柳は青々と生い茂っている。東を眺めれば、はるかに北京市街区の街並みが見え、西を望めば、美しいまでの玉泉宝塔や西山の山並みが目に入る。仏香閣の一階には、明代(1368~1644年)に鋳造された「千手千眼観世音菩薩銅像」が祭られている。
後山サムイェ寺
万寿山の北側は「後山」と呼ばれ、チベット仏教寺院の傑作--サムイェ寺(チベット自治区ダナン北部)を模したという建築群「四大部洲」がある。18の建築物で構成される。漢族とチベット族の建築様式を融合させたもので、壮大で鮮やかな色彩である。それは、中国の各民族文化の交流をはじめ、当時のチベット地方政府と中央政府の緊密な関係を表している。残念なのは、清の咸豊10年(1860年)、中国を侵略した英仏連合軍により、ほとんど焼き払われてしまった。近年以来、大規模な修復工事が行われ、四大部洲にふたたび乾隆時代の規模と輝きがよみがえった。
清晏舫
清晏舫は、別名「石舫」とも言う。全長36メートル、すべて白色の石で築き上げられている。もともと、上部の建物は中国式の楼閣だったが、英仏連合軍の焼き討ちの後、1893年に慈禧太后が現在のような洋式の楼閣船に建て直した。頤和園の中では唯一の洋式建築である。
万寿山の南麓で、昆明湖の北岸に、東西にはしる長さ728メートルの彩色画の長廊がある。それは、頤和園の配置の中では「ポイントをつなぐ作用」があるといえよう。まるでかけ橋のように、万寿山の前方に分散する景観をつなぎ、ふもとに広がる空間を補っている。
長廊には合わせて273間あり、内部の梁にはみな、生き生きとした筆致の「蘇州式彩色画」が八千幅も描かれている。彩色画の内容は、風景、花鳥などのほか、『三国志演義』『西遊記』『説岳全伝』『封神演義』などの物語がある。長廊は中国の古典庭園建築において、きわめて高い芸術的価値をもっている。
玉瀾堂
「玉瀾堂」と「楽寿堂」は、昆明湖北東側の湖畔に位置しており、中国近代史における重大事件を検証する建物となっている。
玉瀾堂は清の光緒帝(1875~1908年)の寝宮であった。楽寿堂は慈禧太后が頤和園を訪れたとき、居住した場所である。光緒24年(1898年)、光緒帝と維新派が新政を敷くために起こした「戊戌の変法」の失敗後、楽寿堂の慈禧太后は、光緒帝を玉瀾堂に軟禁しようと、四方に通じる玉瀾堂の多くの門をレンガでふさいだ。また、慈禧太后は北京城に帰ると、光緒帝を中南海の蟄台に監禁、死に至らしめた。玉瀾堂には、いまもレンガに閉ざされた門が残されている。
西堤
昆明湖の南から西にかけて、「西堤」と呼ばれる一本の堤が築かれている。西堤の上には各種の亭橋(東屋をもつ橋)があるが、それは乾隆帝が杭州西湖の蘇堤を模して造ったものだ。ここは一片の田園風景で、乾隆帝は昔、ここに「耕織図」(耕したり、布を織ったりする図)という直筆からなる碑を残した。
昔、皇帝や皇后たちは、「長河」をはしる船に乗り、頤和園へと赴いた。現在は「昆玉河」(昆明湖―玉淵潭)と改名された河が整備され、北京市街区から乗船して、美しい景色を楽しみながら、頤和園へと到達できる。