十三陵は、明代十三人の皇帝とその皇后が眠る墓である。北京の西北郊外、市の中心から約五十キロ離れた燕山の支脈--天寿山の南麓に位置し、中国に現存する最大の皇帝陵墓群である。東、西、北の三方を山に囲まれ、すばらしい地理環境に恵まれている。楼門を過ぎると、参道には皇帝の死後も権力を守り続ける象徴としての象、馬、駱駝、功臣官、文臣官、武将像など重厚な石像が並んでいる。一般公開されているものは定陵と長陵、昭陵。定陵は、第14代神宗万暦帝の陵墓で、中殿には漢白玉の王座、後殿には万暦帝と左右に2人の皇后の棺が安置されている。長陵は十三陵の中で最大規模を誇る第3代永楽帝の陵墓である。
明代洪武31年(1398年)、明の太祖-朱元璋が亡くなり、皇太孫の朱允文が皇位を継い、年号は「建文」、すなわち明の恵帝である。藩王(諸侯の王)の勢いが絶大であった当時、建文帝は朝廷の安全を守るために、藩の勢力を弱めようとする政策を取った。それは、藩王たちの利益を犯した。ちょうどその時、大軍を率いて帝位を奪い取ろうとしていた朱元璋の四子、燕王-朱棣は「建文帝の政策に同意できぬ」と、それを口実に兵を起こし、都城-南京を攻めはじめた。四年の戦いを経て、朱棣は建文帝の帝位を奪い、明の成祖-永楽帝となった
十三陵一帯の「陵園」から南へ7キロ下ったところに、6本の柱と5つの門、11の棟をもつ漢白玉製の「石碑坊」がそびえ立っている。これが、十三陵の南端にある最初の建築物である。その碑坊の後方(北側)が三つの門をもつ「大紅門」で、これが陵園の正門である。この門をくぐり、陵園に入るのだが、大紅門の門前にある石碑には、「官員人等至此下馬」(役人らはここに至りて下馬せよ)という8文字が刻まれている。かつて大紅門の左右には、長さ40キロの壁が巡らされ、それは陵園を取り囲んでいた。今ではほとんど崩れ落ち、残壁がわずかに見られるだけだ。 大紅門をくぐると、長陵に向かう「神道」(参道)となる。陵園全体における主だった神道だ。神道にある最初の建物は、高さ25.14メートルの「碑亭」で、亭内には高さ7.91メートルの石碑「大明長陵神功聖徳碑」が建てられている。石碑には3500字あまりの碑文があるが、これは明の仁宗----朱高熾が、その父、成祖--朱棣のためにつくったものだ。
十三陵では、これを除いた陵墓前の石碑はすべて「無字碑」である。この不思議な現象には、ある歴史が隠されている。明の太祖----朱元璋はかつて「亡くなった皇帝の陵碑の碑文は、かならずその後継ぎの皇帝が記さなければならない」という規則を定めた。しかし、長陵以降の献、景、裕、茂、泰、康の各陵墓の陵門前には、建築時に碑亭と石碑が建てられなかった。現在、これらの前にある石碑はみな明の仁宗、嘉靖年間に増築されたものである。そのため、碑文は嘉靖帝が記すはずであったが、彼は執政をきらった暗愚の君主であった。それほど多くの碑文を記すという気持ちがどこにあったろう。それで碑文は空白になった。のちの皇帝も多くは暗愚の君主であり、嘉靖帝のやり方を真似たために、それらの無字碑が残された。
陵名 | 墓主名 | 廟号 | 諡号 | 年号 | 在位期間/年 | 享年 |
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長陵 | 朱棣 | 成祖 | 文皇帝 | 永楽 | 1403~1424 | 65歳 |
献陵 | 朱高熾 | 仁宗 | 昭皇帝 | 洪熙 | 1425 | 48歳 |
景陵 | 朱瞻基 | 宣宗 | 章皇帝 | 宣徳 | 1426~1435 | 38歳 |
裕陵 | 朱祁鎮 | 英宗 | 睿皇帝 | 正統/天順 | 435~1449,1457~1464 | 38歳 |
茂陵 | 朱見深 | 憲宗 | 純皇帝 | 成化 | 1465~1487 | 41歳 |
泰陵 | 朱佑[木堂] | 孝宗 | 敬皇帝 | 弘治 | 1488~1505 | 36歳 |
康陵 | 朱厚照 | 武宗 | 毅皇帝 | 正徳 | 1506~1521 | 31歳 |
永陵 | 朱厚恩 | らい世宗 | 粛皇帝 | 嘉靖 | 1522~1566 | 60歳 |
昭陵 | 朱載後 | 穆宗 | 庄皇帝 | 隆慶 | 1567~1572 | 36歳 |
定陵 | 朱翊鈞 | 神宗 | 顕皇帝 | 万歴 | 1573~1620 | 58歳 |
慶陵 | 朱常洛 | 光宗 | 貞皇帝 | 泰昌 | 1620 | 39歳 |
徳陵 | 朱由校 | 熹宗 | 悊皇帝 | 天啓 | 1621~1627 | 23歳 |
思陵 | 朱由検 | 思宗 | 愍皇帝(清代順治加諡) | 崇禎 | 1628~1644 | 35歳 |
敷地面積10ヘクタールの「長陵」は、十三陵を代表する最大規模の陵墓である。永楽7年(1409年)に創建され、4年間をかけて完成、既に600年の歴史をほこり、十三陵の中で最も保存状態がよい。 その「享殿」(または 恩殿)は、明の皇帝陵の中で唯一、今に残る陵殿である。大殿(本堂)の幅66.5メートル、奥行き29.12M、高さ25.1M、総面積は1956㎡。明、清代の宮廷、故宮の「太和殿」(皇帝が執政した殿堂)の規格によく似ている。 殿内は「金磚」(故宮建築のさい、殿内の床に敷いた蘇州などで焼成された大型レンガ)が敷き詰められている。また、木材はすべて雲南、貴州、四川、広東、広西などの地の銘木「金絲楠木」が使われている。特に、殿内に聳える高さ12.58M、32本の巨大立柱は、何れも直径1Mを超える金絲楠木で、世にまれに見る逸品である。当時、これらの巨木を伐採するには、夫役に駆り出された者が、獣が出没するような人里離れた山奥に入らなければならなかった。多くの命が、山奥で失われた。「入山一千、出山五百」(千人入山しても、下山するのは五百人)ということわざがあるが、それは彼らの労苦と危険な作業を描写している。
永陵は、明代の第11代皇帝、世宗-朱厚と彼の3人の皇后の合葬墓である。規模の大きさは、長陵に次ぐものである。崩壊がかなり進んでおり、現在、ほぼ完全な姿で残っているのは「明楼」だけだ。しかし、それは十三陵の「明楼の冠」、明楼の粋である、と言われている。 永陵の明楼は、外側の石段から上ることができる。仔細に見ると、その斗拱(梁や棟を支える柱の上の弓形の角材)、垂木、梁などは、いずれも木材を使用せず、石材で構成されており、その工芸技術はきわめて繊細である。のちの定陵の明楼もすべて石造りであるが、工芸技術のレベルは永陵の方が上手であった。永陵の明楼は、古代の工匠たちの叡智と勤労ぶりをじゅうぶんに表している。
定陵は、明代の第13代皇帝、神宗-朱翊鈞と彼の2人の皇后の合葬墓である。十三陵の中では唯一、発掘された陵墓だ。朱翊鈞は、明代における在位期間が最長の皇帝である。48年の長きに及んだが、贅を尽くし財をむさぼった、歴史上に名を残す暗愚の君主であった。万暦12年(1584年)に起工し、6年の歳月をかけて、万暦18年に完工した。その白銀800万両に及ぶ工費は、当時の国家税収2年分に相当した。
1956年5月、考古学者らが定陵の試掘をはじめた。1年の歳月をへて、人々は分厚く強固な「金剛壁」(地下に埋没している壁の総称)の中に、墓室の「玄宮」に入るためのアーチ型の門を発見した。
定陵の玄宮は、俗に「地下宮殿」と称される。総面積1195平方メートル、前殿、中殿、左配殿、右配殿、後殿の5つの殿堂で組み合わされている。地下宮殿には一本の柱も梁もなく、天井はすべて石をアーチ型に組んだものである。後殿は最も高いところが9.5メートル、ほかの殿堂も高さ7メートルを超えている。その工芸技術は、中国古代建築においても最高レベルにあるだろう。 後殿の中央には、神宗皇帝と孝端、孝靖という二人の皇后のひつぎが置かれている。ひつぎの両側には、副葬品を入れた24個の大木箱が置かれている。中殿には、前方から後方に向かって順に、孝靖皇后、孝端皇后、万暦皇帝の漢白玉製の宝座が三つ置かれている。宝座には、鳳凰と竜が彫刻されており、その形は皇帝、皇后が生前使っていた木製の宝座とそっくりである。
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