元代には皇室の御苑で、明代に永楽帝が風水の関係から、護城河の開削の残土で人工の丘を築きました。明代には万寿山の名で呼ばれ、清の順治12年(1655年)に景山改名されました。
景山公園は、清代の皇室の禁苑で、1928年に民衆に開放され、面積は23万㎡、高さは44.6m(海抜88.7m)、頂上に三層の万春亭があります。清代には京城の中で最も高い地点でした。万春亭からは南に広がる北京の城下を一望でき、特に夕刻には眼下の紫禁城の甍が夕日で黄金色に輝き絶景を楽しめます。
万春亭の東に位置する観妙亭の東側で明末に悲劇が演じられました。明の崇禎17年(1644年)、農民反乱軍の指導者の李自成が北京城に攻め入ると、崇禎帝(注2)は永王と定王の2人の皇子を紫禁城から脱出させ、皇女の長平公主と昭仁公主を自らの手で殺し、崇禎帝自身は宦官の王承恩と共に紫禁城を抜け出し景山に登りました。そこで一本の槐樹に帯を釣るし縊死しました。幾度か植えかえられたものではあるが、今もその場に槐樹があり説明文が添えられています。
北部の寿皇殿および東北方向にある観徳殿は、清代に皇帝と皇后の棺を本葬まで安置した場所です。現在は寿皇殿と園の西北部分は北京市少年宮となっています。
景山公園案内図