紫禁城は北京の旧内城の中央南部よりに位置しています。城壁の四周にそれぞれ一門があり、南の午門が正門としてとくに雄大で、北に神武門、東に東華門、西に西華門が開き、四隅に角楼(かくろう)があります。城内は南と北の2区に大別され、南は公的な場所の外朝で、午門から北へ太和門、太和殿、中和殿、保和殿が中軸線上に一列に並び、その東西に文華殿、武英殿などの殿閣が配置されている。
今回は歴代皇帝が暮らした紫禁城の歴史、地図、建物およびその機能や場所、チケット、営業時間などを徹底にご紹介します。
紫禁城とは、北京の旧市内のほぼ中央を占める故宮のことです。明、清時代の古い宮城ゆえに故宮と呼ばれ(瀋陽故宮を詳しく見る)、約490年間、24人の皇帝の居城となりました。故宮は1961年に中華人民共和国国務院によって全国初の「重点文物保護単位」の一つとなりました。更に、1987年ユネスコの世界遺産に指定されました。
元は故宮と共に宮苑や官庁を併せた区域を皇城と称します。故宮は、南京から北京に遷都した明の成祖永楽帝が、1420年(永楽18年)に元の宮城跡に竣工したもので、明末に大破壊をこうむったあと、清がほとんどその規模を受けついで復興し今日に至っています。
北京を訪れる圧倒的な観光客、特に初めて北京に来る人には、故宮は必見場所とされています。故宮は紫禁城と旧称され、建設工事が完成した後、ずっと明、清2代の皇宮として使われてきました。故宮観光は主に建築芸術と珍しい文化財産という2つの見どころがあります。
故宮に3つの出入口があり、それぞれ午門、神武門、東華門です。故宮は南から北へという一方通行が実行され、すなわち、午門から入り、神武門から出ます。普通、中軸線に沿って見物します。午門は観光入口として使われ、観光客は必ずここから故宮に入ります。神武門は観光出口として使われ、観光が終わったら神武門或 は東華門から故宮を離れます。
中軸線観光ルート:午門→金水橋→太和門→協和門→文華殿(陶磁器館)→頤和門→武英殿(書画館)→弘義閣→体仁愛閣→太和殿→中和殿→保和殿→乾清門→ここから東へ行って景運門、奉先門を経て奉先殿に入り、時計館を見物してから、寧寿門を経由し寧寿宮(珍宝館、演劇館)に到着し、珍宝館を見物した後乾清門に戻る→乾清宮→交泰殿→坤寧宮宮→御花園→神武門。
他に、もう1本ルートがあります。中軸線を基礎として少し変わって、御花園を略しますが寧寿宮皇后寝室エリアを加えて、珍宝館、演劇館のほかに、当時珍妃を溺れさせた井戸を見物できます。具体的なルートは次の通りです。午門→武英殿(書画館)→太和門→太和殿(金鑾殿)→中和殿→保和殿→乾清宮→交泰殿→坤寧宮→東六宮区→斎宮→寧寿宮区前朝(珍宝館、石鼓館)→寧寿宮皇后寝室(珍宝館、演劇館、珍妃井)→神武門。
故宮は中国及び世界中で最も完璧に残っている、規模最大の木造古建築群で、世界五大宮(北京故宮、フランスベルサイユ宮殿、イギリスバッキンガム宮殿、アメリカホワイトハウスとロシアクレムリン宮殿)でトップだと賞賛されています。その建築は配置と機能によって「外朝」と「内廷」の2つに分けられます。乾清門を境に、南の方は外朝、北の方は内廷とされ、建築の雰囲気はまったく異なっています。外朝は「前朝」とも呼ばれ、 太和殿 、中和殿 、保和殿の3大宮殿を中心にして、封建皇帝が権力を行使し、盛典を開催する場所です。とりわけ太和殿は「金鑾殿」と言い、皇宮の絶対的な中心で、見逃せない場所です。内廷は乾清宮、交泰殿、坤寧宮と中心として、東西両側の東六宮と西六宮は、封建帝王と皇后、妃嬪達の居住した場所で、「三宮六院」と俗称されています。
故宮の四面に城門があり、南の午門は現在、参観者の入り口であり、北の神武門は出口となっている。故宮には、南北に通る中軸線に沿って宮殿建築が配置され、左右対称につくられている。赤い壁に黄釉の瓦をいただき、柱や梁の表面は文様や彫刻で埋められ、きらびやかである。数多くの宮殿や楼閣からなる建築群は、壮麗で、雄偉である。朝日と夕暮れの中の故宮は幻想世界のようで、ひときわ美しい。
故宮の内には数多くの珍しい文化財が収蔵されており、統計によると百万点もあり、全国文化財総数の六分の一を占めているそうです。文化財の種類によって、いくつかの展示館、総合的な歴史芸術館、絵画館、陶磁器館、青銅器館、明清工芸美術館、銘刻館、玩具館、筆墨紙硯館、玩物館などの展示館と清朝宮廷法令制度文化財展覧などに分けられます。その中、寧寿宮地区にある珍宝館と奉先殿にある時計館は最も人気です。時計館は毎日11時と14時に時計の実演があり、ここで清の時代に秘蔵されていた各種の形がユニークで独創性のある珍しい機械式時計が鑑賞でき、絶対に見逃してはいけません。
紫禁城の面積は約72万平方メートルで、東京ドーム約15個分に相当する広大な宮殿で、この中に9000近くの部屋があり、明代では9000人の宮女、宦官10万人が住んでいたといわれる。これからは歴代皇帝とお妃達が暮らした太和殿、乾清宮などよく使用された場所を詳しい紹介します。
普通は「金鑾殿」という。明代の永楽18年(1420)に創建された。創建当時は奉天殿と名付けられ、嘉靖年間に皇極殿、さらに清代の順治年間に太和殿と変更された。今の建物は殆ど清の康熙34年(1695)に再建されたものである。宮殿の高さは35.05メートル、面積は2,377平方メートルで、[重檐廡殿式]という宮廷建築様式で建てられてた。72本の巨大の柱が建物を支え、その中の6本は雲龍文様を漆で盛り上げて金箔で覆った金柱である。太和殿は故宮の中で一番大きな宮殿である。
この宮殿は皇帝の即位、結婚から皇后の冊立、皇帝の誕生日、科挙の成績発表、大将の出征、毎年の春節や冬至節などまで、重大な行事が行なわれた場所である。行事の日には太和殿から天安門まで儀仗が並べられ、太和殿の外に中和韶楽、太和門内に丹陛大楽の楽器が設置される。一品から九品までの文武百官が官位別に御道の両側に立ち並ビ。皇帝が太和殿に着と、午門にある鐘と太鼓が一斉に打ち鳴らされ、楽隊が相次いで演奏し、香の煙が宮殿内外に漂い、厳かな雰囲気の中で封建帝王の高貴さ、威厳が示された。
中和殿は明代の永楽18年(1420)に建てられて以来、2度の火災に遭い、現在の建物は明代の天啓7年(1627)に再建されたものである。創建当時には華蓋殿と名付けられ、その後、中極殿、さらに清代の順治2年(1645)に中和殿と改名された。ここは皇帝が太和殿に赴いて行事を行なう前に休息をとったり、執事の官員の朝拝を受ける場所である。そのほか、皇帝が毎年の春に農壇を祭る前にここで祭文を読み。地壇、大廟、社稷壇を祭る前にもここで祝板に書かれた祭文に目を通し。
明代の永楽18年(1420)に創建され、清代の嘉慶3年(1798)に再建された。明代から清代の康熙年間まで皇帝がここに住み、日常の政務を執っていた。清代の雍正帝が即位し、寝宮を養心殿に移してから、乾清宮は内廷式典を行ない、皇帝が臣下や外国使節に会見する場所となった。
雍正帝の時代以来、皇帝が後継者を指名する方法として「太子密建の法」が定められた。その方法とは、皇位後継者の名前を記した詔書を匣に納め、乾清宮の中の「正大光明」の扁額の後ろに置き、皇帝崩御の後、匣が開けられ、指名された皇子が皇帝の位に即くというものだった。清代には皇帝が崩御すると、暫くの間、棺はこの宮殿に安置され、弔いの儀式が行われた。棺はそののち、景山の観徳殿に移され、正式な葬式が行われ、皇室の墓地に葬られた。
明代の永楽18年(1420)年に建てられ、清代の乾隆時期に改築された。明初は謹身殿といい、嘉靖年間に建極殿、清代の順治年間に保和殿と変更された。皇帝は大晦日に保和殿で少数民族の王侯、大臣をもてなし。乾隆年間以後、ここは「殿試」の場所となった。「殿試」とは科挙制度の中で最高級の試験のことであり、3年間おきに行なわれ、合格した者は「進士」となり、最も成績のよい3名はそれぞれ「状元」、「榜眼」、「探花」と呼ばれ
交泰殿の創建は明代の永楽18年(1420)であるが、現在の建物は清代の嘉慶年間に再建された。
元旦や千秋(皇后の誕生日)などの祝日に皇后がここでお祝いを受けた。乾隆皇帝が皇帝の権力を象徴する25種の印璽をここに納めて以来、交泰殿は印璽の保存場所となった。
明代の永楽18年(1420)に建てられた皇后の寝宮である。清代の順治12年(1655)に盛京の清寧宮を模して、建て直され、西の間はシャーマン教祭祀の場所となり、東の間は皇帝の結婚式の時の寝室となった。清代の康熙、同治、光緒三帝の結婚式では、共にここを寝室とした。
明代の嘉靖16年(1537)に建てられ、清代の雍正年間に改築された。建物自身は「工」字形建築物で、二つの宮殿からなっている。雍正年間に皇帝の寝室は後ろの宮殿に移され、前の宮殿は皇帝が日常の政務を執り、臣下に会見する場所となった。養心殿の西の間(西暖閣)は皇帝が役人の上奏文書を決裁し、「殿試」の試験答案を審査、閲覧する場所だった。また、軍機大臣を召見し、軍政の実務について相談するのにも使われた。
養心殿の東の間(東暖閣)は、同治、光緒年間に慈禧皇太后(西太后)が慈安皇太后と共に「垂簾の政」した場所である。宣統3年(1911)辛亥革命の際、溥儀がここで「御前会議」を開き、退位を決めた。
明代の永楽15年(1417)に建てられ、当初は万安宮と呼ばれ、嘉靖年間に翊坤宮と改名された。明清二代にわたって后妃がここに居住した。清代、儲秀宮に住む慈禧皇太后は、重要な祝日にこの宮殿で妃嬪たちの拝礼を受けた。そして光緒10年(1884)、50歳の誕生日の慈禧皇太后は、ここで大臣たちの祝賀を受けた。
清代の雍正7年(1729)、雍正帝が、中央集権を強化し、軍隊に対する指揮権を強めるために軍機房を設立した。乾隆帝が即位してから総理処と改名し、そして三年後に軍機処と命名した。軍機処には軍機大臣、軍機章京などの官職が設けられ、これらの役人が軍機処で待命し、皇帝の召見に応じて軍政の要事について相談し、軍政務に携わった。
明代の永楽18年(1420)に建てられ、清代の順治12年(1655)に改築された。明、清二代にわたって后妃がここに居住した。咸豊2年(1852)、入宮し「蘭貴人」の称を授けられた慈禧皇后は、この儲秀宮に住んでいた。そして咸豊6年3月、「懿嬪」となった慈禧皇后がここで同治帝を生んだ。光緒10年(1884)、長春宮に住んでいた慈禧皇太后は自らの50歳の誕生日を迎えるため、銀63万両で改装工事をして、再びこの宮殿に移った。庭の回廊の壁に書かれた言葉は、当時の大臣たちが慈禧皇太后の誕生日を祝って書いた賛辞である。
明代の永楽18年(1420)に建てられ、未央宮と呼ばれた。明の嘉靖年間に啓祥宮、清の末期に太極殿と改名された。明、清二代にわたり后妃が居住した場所となった。
明の永楽18年(1420)に建てられ、清の康熙22年(1683)に改築された。明、清二代にわたって后妃がここに居住した。明の天啓帝の李妃、清の乾隆帝の寵愛した孝賢皇后、清晩期の慈禧皇太后がかつてここに住んでいた。
天を祭るところー天壇
中国最大の皇家園林-頤和園
寧寿宮地区にあり、養心殿(第一室)、楽寿堂(第二室)、頤和軒(第三室)の3か所に分けられ、館内に所蔵されている珍しい宝物はとても豊富で、仏教用品、アクセサリー、日常用器具と鑑賞芸術品を含みます。こられの芸術品の多くが黄金、銀、玉、翠、真珠及び各種宝石などの珍しい材料を採用し、各地の有名な職人を掻き集めて作り出したものです。巧みな設計、経費を惜しまなく、その技術は当時の最高水準を代表していました。そのうち、高さ14センチの赤珊瑚獅子、長さ137センチの東珠朝珠、高さ17.5センチの金「奉天の宝」璽など、すべてが貴重な芸術品です。
奉先殿にあり、展示されている時計はイギリス製を主にして、もちろんフランス、スイスなどの他の西欧諸国の時計もあります。
宮内に設けられた時計製造所は、皇帝の意思に応じて時計を作り宮内で使いました。同時に、清の時代、広州、蘇州などで生産された時計の逸品は、貢ぎ物として内廷にも献上されました。これらの時計は時間を計る機能の他に、機械の連動原理を利用し、上に飾ってある人物、鳥、獣、花などを絶えず変化させたりして各種の仕掛けを動かし、非常に精巧だと褒められています。
そのうち、高さ231センチの銅鍍金写字人鍾、高さ87センチの銅鍍金嵌琺瑯葫芦頂漁樵耕読鍾、銅鍍金転花跑人犀牛馱表などが最も珍しいです。
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