武漢の歴史
武漢には悠久の歴史があります。北郊にある黄陂県では、3500年もの歴史ある商代方国宮城(盤龍城遺跡)が発見されています。また三国時代には、武昌と漢陽に、江夏と却月古城が建築されています。
その後唐時代では、武漢は有名な商業都市になり、明朝から清朝時代にかけてはさらに発展し全国の「四大名鎮」になりました。武漢三鎮には沢山の革命の遺跡があります。1911年に起った武昌起義はここで始まり、蜂起の旧跡がここに残っております。また武昌閲馬場の紅楼は当時の指揮の中心になった建物で、孫中山の銅像もここにあります。歴史的名所としては、黄鶴楼(江南三大名楼の一つ)、東湖(中国国家級の風景区)、五百羅漢及び玉仏、帰元寺(悠久なる歴史で有名になる)、古琴台(高山流水で知音を見つかる)、などが有名です。
江城の由来
山城の重慶、蓉城の成都、春城の昆明のように別名で呼称されることがありますが、武漢も江城という別名で呼ばれます。唐代の詩人李白が、かつて武漢で遊興を楽しんでいた時、史郎中(史欽です。郎中は職位です)と黄鶴楼でお酒を飲んだことがありました。お酒を飲みながら音楽を聞く李白は、興に乗る最中に詩を詠み、その詩の中の「江城五月落梅花」という句の「江城」を、武漢人は大変気に入り、自ら「江城人」と称したことが始まりです。
武漢三鎮の由来
武漢は武昌、漢陽、漢口という三つの鎮があります。その三つの鎮の歴史、規模、発展はそれぞれ違っています。
武昌という名は、後漢の末から三国期の初めに使われ始めました。それは、孫権が劉備と荊州を奪うため、紀元211年に都を建業(今の南京)から鄂県まで移し、「以武治国而昌」(武で国を治めて栄える)の中の「武昌」の意を採って都を「武昌」と変名しました。また考古の見地からは、手工業や、造船、冶金、貨幣鋳造などが発達していた事もわかっています。磁器も有名で、武昌の磁器は影青磁と呼ばれています。
一方で、武昌にある黄鶴楼は歴史の中で何回も倒壊再建を繰り返します。三国時代からは10回も再建されています。再建の度に、各時代の建築風格と特色を体現してきました。
漢陽という名の由来は、漢水と密接に関わります。「水の北」は陽で「山の南」も陽であり、「漢水の北」「亀山の南」に位置し、日照が充分あるため漢陽と呼ばれました。紀元606年、隋時代大業二年、漢津県は漢陽県と変名されてから漢陽という名が使われてきました。唐代では県の役所を漢陽市内に移したことから徐々に発展してきました。
漢陽のある鸚鵡洲一帯は、長江中流商船の集散地であり唐、宋、元、明の各時代では商業と手工業でさらに発展しました。また一方で、有名な観光地でもあり、漢陽にある帰元寺は武漢市内で最もよく保護されている仏教僧林です。漢陽は武昌と並んで同時期に城を建て、約1800年の歴史があります。
漢口は歴史的には漢陽と同時期のペースで発展しました。明時代成化十年(紀元1474年)、漢水は流れが変わり、亀山の北麓から長江へ入ることになった後から、漢口は独自に発展するようになりました。ということで漢口には500年しか歴史がありません。
漢口は早い発展スピードで新興商業都市になり、その名声と発展スピードは武昌、漢陽を超えました。明時代の末から清時代の初め頃、漢口は、河南朱仙鎮、广東佛山鎮、江西景徳鎮と並んで全国四大名鎮と呼ばれていました。海外では「東方のシカゴ」と呼ばれました。
漢口は良港であり、貿易、運輸で大きく発達し、中国内陸河の最大な港となりました。1905年湖広総督であった張之洞は、漢に張公堰を修築しました。この堰は後湖一帯の水位を下げ、湖が陸地になり狭い漢口の土地面積の拡大に役立ち、漢口はさらに発展しました。
1927年、武漢国民政府は武昌、漢口(漢陽県を管轄)を合弁して武漢と名付けて首都にしました。それに、「武漢」と名を定めました。現在の武昌、漢口、漢陽三鎮からなる武漢はほんの74年です。