諸葛亮(しょかつ りょう 181年-234年)、字は孔明、またの名を臥竜といいます。漢民族で徐州琅琊陽都(今の山東省臨沂市沂南県)に生まれ、三国時代蜀国の丞相、政治家、軍師、散文家、書家、発明家です。武郷侯によって命を奪われ、その後「忠武侯」の諡号が与えられました。東晋政権は軍事才能を称え、死後に「武郷王」の爵位を与えました。
劉備の軍師として天下三分の計を提案、赤壁の戦いでは孫権と連合して曹操を破った。その後、蜀漢の建国者である劉備の創業を助け、その子の劉禅の丞相としてよく補佐した。雲南地方に遠征して異民族を抑えた後、魏に対する北伐を数回に実行、その途中、建興十二年(234年)に五丈原(今の宝鶏市岐山境内)にこの世を去りました。
諸葛孔明は181年に琅琊陽都県の官吏の家で生まれ、8歳の時に父を失いました。16歳になり、才能が抜群でも当時、彼を認める人は一人もいませんでした。しかし友人である徐庶、崔州平などは彼の才能を評価していました。当時、「臥竜」とも呼ばれ、襄陽の名士司馬徽、龐徳公、黄承彦などとも交流がありました。
黄承彦は諸葛孔明に「君が妻を娶りたいと聞いているが、うちの娘はどうだろうか?髪が黄色くて、肌が黒く、醜いが、才能は君に娶わせるに足る」と言い、諸葛孔明はその話を受け入れるとすぐに結婚しました。周囲ではこれを笑って「孔明の嫁選びを真似てはいけない」と囃し立てたという。これ以降、不器量の娘を進んで選ぶことを「孔明の嫁選び」と呼ぶようになった。しかし、黄夫人自身が非常に美しいということわざもあります。それで、彼女は村の他の若い女性の嫉妬によって非難されました。
207年の冬から208年の春にかけて新野に駐留していた劉備は徐庶の勧めで3度、諸葛孔明の家を訪れました。しかし最初の2回は諸葛孔明に会えず、やっと3回目で会うことができました。これが有名な「三顧の礼」であリます。
劉備の熱心な誘いに応じ、その軍師となった諸葛孔明は、劉備に対していわゆる「天下三分の計」を披露し、曹操・孫権と当たることを避けてまず荊州・益州を領有し、その後に天下を争うべきだと勧めました。諸葛孔明が提案した「天下三分の計」は、劉備と蜀漢の基本的な国家政策でした。
赤壁の戦いに於いて、前述の通り孔明はあまり目立った事はしていないが、『演義』に於いては非戦論に傾いていた孫権、周瑜を説得して交戦に向かわせる。戦いが始まってから周瑜は諸葛孔明の才能を恐れるようになり、諸葛孔明に対して10日で矢10万本を作れと言う無理難題を突きつけて殺そうとしたが、諸葛孔明は霧の出た夜に曹操軍に対して夜襲を仕掛け、曹操軍が打った矢を鹵獲して帰った。更にこの戦いでは曹操軍を火責めにすると決まっていたものの風が北西の風しか吹かず、このままでは火を付けてもその火が自分たちに帰ってくる事がわかり、周瑜は悩んでいた。そこで諸葛孔明は壇を築いて祈祷し、東南の風を吹かせ、曹操軍を焼き討ちにしたとなっている。
赤壁以後の荊州争奪戦に於いて、周瑜は曹操の残党軍を攻めてこれを打ち破るが、諸葛孔明はこの隙を突いて曹操軍の城を占領し、諸葛孔明に先んじられた事で怒った周瑜は持病が悪化する。その後、周瑜は蜀を取るからと偽って荊州に入り、隙を突いて荊州を占領しようと図ったが、全て諸葛孔明に看破され、再び怒った周瑜は「天はこの世にこの周瑜を生みながら、なぜ諸葛孔明を生んだのだ!」と叫び、そのまま持病が悪化して死去したとなっているが、これらも『三国志』にはない。
北伐に於いての孔明は『演義』では魏延の危険性を察知し、追撃してきた司馬懿を谷に誘い込んで魏延共々焼き殺そうとしたが、雨が降ったことで失敗する。その後の最後の北伐に於いて、病状が悪化した孔明は幕内に祭壇を築いて寿命を延ばす祈祷を行うが、唐突に幕内に入ってきた魏延がこの祭壇を壊してしまったために祈祷に失敗し、死去した。
諸葛孔明の死の時に大きな流星があり、司馬懿はこれを見て孔明の死んだ事を悟り、蜀軍に対して総攻撃をかけようとする。所が蜀軍には諸葛孔明の姿があり、これに狼狽した司馬懿は慌てて引き上げる。実はこの諸葛孔明は木像であった。後に現地の人間は「死せる諸葛、生ける仲達(司馬懿の字)を走らす」と言ったとなっている。(この台詞は正史の注『漢晋春秋』にあるが、木像に狼狽したというのは演義の創作である)
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