張飛(ちょうひ 168年 - 221年)は中国三国時代に蜀漢に仕えた武将。現在の河北省の人。字は益徳(三国志演義では翼徳)。諡は桓侯。男性。
劉備が旗揚げして以来、関羽と共に付き従い、劉備を助けた。蜀漢の役職は車騎将軍。劉備・関羽とは兄弟の様なつきあいをしていたと言う。関羽の方が数年年長の為、関羽に兄事していた。
演義では、『蛇矛』という一丈八尺の鋼矛を愛用している。子供については、男子は張苞・張紹、女子は敬哀皇后・張皇后がいる。
数々の戦いで豪傑振りを示し、特に長坂の戦いでは数千の曹操軍に対し、二十騎で殿を務め(『三国志演義』ではただ一騎)、大喝して曹操軍を恐れさせた。 また、劉備が益州入りするときは、諸葛亮と共に援軍として出発し、厳顔を生け捕りにした。その功績は大きく巴西太守になった。その後、漢中争奪戦では策を用いて魏の武将を打ち破るなど、智謀の士でもあったとされる。
張飛は、曹操軍の程昱らに一万の兵に匹敵すると評価された。しかし、位の高い士大夫に対しては紳士的にふるまったものの、位の低い者、部下などに対しては傲慢に振る舞う事が多く、それでいて兵士を側に仕えさせていたため、劉備に常々注意されていたが、改めなかった。
また、『零陵先賢伝』によると、張飛が士大夫の劉巴の元に泊まった際、劉巴は話もしようとしなかった。さすがにそのあと腹を立て、諸葛亮が劉巴に取りなしたが、劉巴は「大丈夫(立派な男)がこの世に生きて行くためには、当然四海の英雄と交わるべきです。どうして兵隊野郎(張飛のこと)と語り合う必要がありましょうか」と言うばかりだった。士大夫と庶人上がりの張飛との間に、厳然たる身分差別があったことが窺える。
劉備が蜀漢を建国すると、車騎将軍・司隷校尉に栄転した。しかし、劉備が呉に対して関羽の弔い合戦の準備をしているときに、恨みを持った部下(張達・范彊)に殺された。劉備は張飛の都督から上奏文が届けられたと聞くと、内容を見る前に「ああ、(張)飛が死んだ」と言った。
260年、桓侯と諡された。
三国志演義では、息子の張苞が関羽の次男関興と共に活躍しているが、正史にはただ、若死にしたとだけ書かれている。
なお、張飛の妻は、夏侯淵の姪に当たり、その娘は二人とも後主の后になっている。魏で、司馬懿による政権掌握の政争が起こったとき、夏侯覇はそのつてを頼って蜀に亡命してきている。
『三国演義(三国志通俗演義)』では、劉備の聖人ぶりをアピールするために、粗暴な役回りを張飛に押しつけている部分が多い。たとえば、劉備が県尉と言う低い役職が不満で督郵を鞭打ったことがあるが、演義では、聖人君子である劉備像を壊さない為に張飛がしたことにされている。
その為か、中国などでは蜀将信仰の際には劉備・関羽・趙雲・諸葛亮となっており張飛は外れてしまっている場合がある。
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