馬超(ばちょう、176年 - 222年)は、字は孟起と言い、中国三国時代の蜀漢の武将。諡は威侯。男性。
錦馬超(きんばちょう)としてたたえられた。子は馬秋・馬承。『三国演義(三国志通俗演義)』では、五虎大将軍の一人。
父は馬騰。涼州を基盤とする豪族であったが、馬騰は後漢の朝廷に帰順し、当時の都に赴いた。
211年、馬超は韓遂、楊秋、成宜らと共に兵を挙げ、時の朝廷の権力者である曹操と対立したが、曹操の臣の離間策に合うなどして潼関の戦いで敗北し、西方の羌族の地に逃れた。この際、馬超の挙兵の責任を問われ、父の馬騰と一族二百人あまりが皆殺しにあっている。
羌族の兵を集めて再び曹操軍を攻めたが勝てず、漢中の張魯を頼って落ち延びていった。しかしながら、張魯が頼みにならないと解ると、214年、益州の劉璋を攻めていた劉備を頼って行った。
馬超が劉備に帰順したと言う噂が伝わると程なく劉璋は降伏し、蜀は劉備の手中に入った。このとき馬超は、平西将軍に任じられた。劉備が漢中王になると左将軍・仮節に昇進した。
221年には、驃騎将軍・涼州の牧になるが、222年、47歳で亡くなった。子の馬承が後を嗣いだ。また、馬秋は張魯の元に残してきたが、張魯が曹操に降伏すると、曹操は改めて張魯に引き渡した。張魯は、自分の手で馬秋を殺した。
260年、威侯の諡号を送られた。
『三国志演義』では、馬騰は曹操暗殺計画に加担していた為、後に謀略によって一族のほとんどを曹操に謀殺されている。唯一、馬騰の甥(馬超の従弟)の馬岱が生き残り、復讐の為に兵を起こしたと成っている。
他にも劉禅即位後に司馬懿が発案した、五つの道を使い蜀を攻める案を発案し魏が羌族を使い北から攻めるが、羌族は北を守備する馬超を恐れて攻め込まなかったという話がある。
正史では、このように剛毅さにあふれる人物に描かれているが、『三国志演義』では、知略に優れた人物として扱われつつも、温厚かつお人よしな性格のために諸葛亮にいいようにやられ、周瑜になじられるという損な役回りを演じている。正史では成功した関羽との交渉も、演義ではけんもほろろに追い返されてしまっている。こうしたキャラクターのためか連環画などではその性格を表した風貌に加えて、肥満漢に描かれることが多い。
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