岳廟は、西湖の棲霞嶺の南側の麓に位置し、金の侵略と戦った宋の名将、岳飛を祭る廟です。岳廟は、南宋嘉定十四年(紀元1221年)から作られ始め、最初の名は「褒忠衍福禅寺」と呼ばれ、明天順間の時に「忠烈廟」と改称されました。その後、岳飛は鄂王の称号を与えられたので、「岳王廟」と呼ばれました。歴代の興廃を経た現存の建物は、清代に再建され、墓園、忠烈祠と啓忠祠の三つの部分から構成されたものです。1961年に全国重要文物保護機関に指定された後、1979年から一般公開されています。
忠烈祠
忠烈祠正殿の両側の壁には「精忠報国」という四大字があります。正殿中央には、高さ4.45メートルの岳飛座像が安置されています。像の上に掲げられた大きな扁額(横長の額)には、「我に山河を還せ」と書かれ、岳飛の筆跡です。
忠烈祠正殿の西側には、ひと組の庭園があり、入口には「精忠柏亭」があります。内には枯れ柏があり、この柏は、もともと大理寺の風波亭に植えてありましたが、岳飛が死んだ後、柏も枯れ、その後は岳飛墓のそばに移し、「精忠柏」と呼ばれていました。現在、鑑定の結果、この柏は南宋の古柏ではなく、松柏科の植物化石に属し、その歴史は1億2千万年以上です。
墓園
庭園に入り、南北にそれぞれ碑廊下があり、北面の碑廊下には岳飛の詩詞、上奏本などを陳列し、南面には廟を修築した記録、歴代の名人の岳飛を弔った詩詞があります。岳飛墓園の墓碑に「宋岳鄂王墓」という字が彫られ、墓碑のそばには、その息子・岳雲の陵墓があります。岳飛墓園の墓に通ずる道の両側には、文武俑、石馬、石虎と石羊があり、明代の遺物です。岳飛は、奸臣の秦桧夫婦により毒殺されたと言われているので、階段の下には秦桧夫婦と腹心2人の半裸の鉄像が、ひざまずいた姿で置かれています。
啓忠祠
昔、忠烈祠の西側には啓忠祠があり、岳飛の両親及びその息子を祭るところでした。しかし、現在は岳飛記念館と改められました。実物、写真などを通じて、岳飛の一生と巨大な影響を紹介しています。展覧品の中には、墓前で出土した南宋の石翁鐘があり、ここは確かに礼で岳飛の墓を改葬したことを実証しています。