永定県は福建省西南部にあり、この地方は客家独自の集合住宅である土楼の故郷として有名です。
永定土楼に代表される客家土楼は、3世紀、異民族の侵入に追われ南下し続けた客家の人々が、安住のために築き上げた要塞のような城壁に囲まれた建築物です。土楼の外観は、強固なイメージがあるが、一歩中に入ると、現在でも伝統的な生活スタイルを貫く人々が生活しています。
永定の土楼は、山の中に点在しています。 中でも、初渓土楼群、湖坑洪坑土楼群、高頭高北土楼群、衍香楼、振福楼、永康楼は最も価値があります。
客家(ハッカ)はもともと黄河流域に住んでいた漢民族が戦乱や迫害を避け、南方に移住して来た人たちです。 彼らは、すでにこの地に居住していた人々から、よその人という意味合いを込めた「客家」と呼ばれています。土楼は、外敵から身を守るため、外側を高い壁を配した、要塞のような建物で、同じ姓を持つ一族が集住していました。
1、2階の外側には大きな窓はなく、また全体で何カ所かの門で外部と厳重に仕切られています。
1階は台所と食堂、2階は食料などを置く倉庫で人は3階以上に住む。現在まで客家の人たちはこの居住形式を守っています。
承啓楼-圓楼之王
所在地: 古竹郷高北村
土楼の歴史は、当初は「五鳳楼」(5羽の鳳凰の鳥が翼を広げた形に似ている)、次に「方楼」(四角形の要塞型)、更に「円楼」(丸型)と進化。現在永定県で円楼が360残っているとのことです。 その中で承啓楼は円楼で最大の物です。
永定で一番大きく「圓楼之王」と呼ばれています。4世紀はじめに西晋が滅んだとき、梅州市から混乱を避けて中原から南下移住してきた漢民族の子孫たちがこの一帯に、砦と住居を兼ねた土楼を建てました。
北方遊牧民族に押されて南下しただけに、古くからの土着民との抗争が絶えず、敵の攻撃を受けても2カ月は食糧や水には困らず持ちこたえられる設計になっています。
承啓楼の構築
永定には清朝のはじめに造られた最古、最大の円形土楼『承啓楼』があります。付近にはおよそ100の円形土楼が群集しています。以前に米国の偵察衛星からミサイルの発射サイロ群ではないかと誤認されたことがあります。
直径73メートル、4階建、1712年建造、同心円状に建物があります。中心は祖廟があり、中に住む数百人のための婚、葬、喜、慶事の場所もあります。1階は厨房と食堂、2階は農作物の倉庫、3ー4階は居室です。
外壁は土で作られていますが、内側は木組構造です。外との堺である門は三カ所だけあります。1709年に初めて建てられました。最盛期には80戸600人が居住していました。