総延長の長さ、プロジェクトの大きさ、歴史の古さで、世界でも名高い京杭大運河は、万里の長城と並ぶ、古代中国の最も偉大なプロジェクトのひとつです。京杭大運河は、北にある北京(涿郡)から始まり、北京、天津両市及び河北、山東、江蘇、浙江四省を経由し、南にある杭州(余杭)まで延びています。そして、海河、黄河、淮河、揚子江、銭塘江という五大水系を通過します。京杭大運河は、全長1794キロメートルで、スエズ運河の16倍で、パナマ運河の33倍です。京杭大運河は古くから、「黄金水道」と呼ばれています。
歴史
古代では、人力と馬などの動物に頼る陸上運送は、遅く、運送量も少ないわりにコストがかさむため、大量の貨物は水路を通して運送するようになりました。しかし、東より西の方が、地勢が高い中国では、自然に形成される江河はいずれも西から東へ流れていました。そして、黄河流域が戦乱で破壊されてから、長江流域の開発にともない、中国の経済文化の中心は南の方に移り、政治軍事の中心は北の方にあるという局面が形成されました。そこで、南北の交流および税収や物資などを朝廷に届けるために、南北を貫通する水路を切り拓くことは歴代の朝廷にとって極めて必要でかつ重要なことになりました。
春秋時期の大運河
春秋時代から掘り始めた京杭大運河は、2500年余りの歴史を持ちます。この間に、京杭大運河は主に三つの時期に発展しました。第一の時期は春秋時代で萌芽の時期です。紀元前486年、呉王夫差に統治された時、10年掛かって邗溝を掘り、江淮に繋ぎました。また、戦国時代に、大溝と鴻溝の掘ったことにより、江、淮、河、済四大水系が繋がりました。第二の時期は隋代で、運河システムが作り上げられました。洛陽を中心として通済渠を掘り、黄河と淮河を繋ぎました。三年後、永済渠を掘り、北の涿郡と結びました。第三の時期は元代で、杭州から大都(北京)への運河全線が開通されました。これは現在の京杭大運河の前身となりました。二千年の間に、大運河は中国の統一、社会の進歩、文化の繁栄に大きな貢献を果たしました。
今の大運河
このほかにも、京杭大運河は当時、中国が水利工事で世界に誇れる先進的技術をもっていたことを表わしており、豊かな歴史的文化遺産としての価値をもっています。ゆえに、大運河は、万里の長城と同様に中国民族の文化を象徴するものであると考えられます。しかしながら、近年来、深刻な環境、水汚染が進み、大運河の保全が叫ばれています。京杭大運河に対する保護は、人類文明の伝承、調和的社会の促進においてもきわめて重要な意味を持っていると思われます。