道教の全真教の第一寺院といわれる白雲観は、北京市の西便門外にあります。ここに中国道教協会、中国道教学院と中国道教文化研究所など、国家級道教組織が次々と設立されてきました。また、白雲観は北京において数ある「文革」で壊されずに生き抜いた寺院の一つでもあります。道教の二大教派の一つである全真教の本山であるこの寺院は、この地方の道教の中心的な役割を果たしていました。
白雲観は龍門派の祖庭であり、前身は唐の天長観でした。唐の劉九宵が書いた<再修天長観碑略>によると、唐代玄宗が老子を備えるために天長観を建てたそうです。金の時代以降、太極宮や長春宮と改名され、また明の初期に白雲観と呼ばれるようになりました。現存する白雲観の殿堂は明清の時代に改築されたものです。
山門に入れば、全建築は中、東、西および後院の四部分に分けることが出来ます。非常に大きな規模であります。中道の線には霊宮殿、玉皇殿、老律堂、邱祖殿、三清閣、四御殿と鐘鼓楼という順番で並んでおり、三清閣の東側には蔵経楼です。また、東道のほうには南極殿、闘姥閣、羅公塔;西道には呂祖殿、八仙殿、元君殿、文昌殿、元辰殿、祠堂院などがあります。規模が大きい上に、隙間がないほどきちんと整って並んでいます。青々とした木が木陰を作って、非常に静かで落ち着ける場所です。
宮観式古代建築群というスタイルです。金の時代に太極宮に改築されて以来、道教寺院という大方の形ができています。当時、「千柱之宫,百常之観,三極之壇,巍巍乎,奕奕乎」と称賛されていました。建築全体は50以上の殿堂があり、建築面積は10000㎡を超えています。中国南北宮観と園林、両方の特徴を持っています。特に裏庭は、亭台楼閣も樹木も山石もそれぞれに妙趣があって、古くから「小蓬莱」という美称があります。
長い歴史を持っている白雲観は現在、首都北京の名所古跡の一つになっています。毎年、国内や海外から多くの旅人が、その独特の魅力に憧れ訪れてきます。特に毎年の春節になると、伝統的な祭りが行われ、行楽客の行き来が絶えることがなく、とても賑やかです。現在白雲観は、中国道教文化と伝統を知る重要な窓口と言えます。トップへ
重陽宮は中国の著名な道教寺院で、全真道の祖庭(祖師の修道の寺院)とされ、重陽万寿宮、祖庵とも呼ばれ、陕西省西安市区の西南側から40キロメートルのところに位置し、陕西省西安市户県祖庵鎮に属しています。 重陽宮は、中国道教全真派の三大祖庭の第一位を占め、全真道の祖師王重陽が若いころ修道した場所であり、埋葬されたところです。小説家金庸の作品『神彫侠侶』の中に重陽宮に対する芸術化の描写がたくさんあります。
王重陽は儒教、仏教、道教という三教を結合させた「三教円通,識心見性,独全其真」を宗旨として、全真と命名しました。彼の弟子丘処機が元太祖から重んじられ、全真教は北方で盛んになりました。王重陽、丘処機の全真教義に関する著述が巷で流行しました。
金世宗大定七年(1167年)、王重陽は自分で居を焼き、東方に旅をして、山東寧海まで、丘処機、劉処玄、譚長真、馬钰諸弟子を取り、全真道教を創建しました。王重陽が亡くなった後、弟子達はその遗体を旧居に埋葬しました。馬钰は全真教を管掌し、当地で道教の寺院を建て、「祖庭」という二字を書いて扁額としました。その後、王重陽の弟子王処一が上奏して、当地で霊虚観の建築を求め、その上、丘処機が重陽宮という名を変えることを求めました。結果、元世祖の頃に重陽万寿宮と呼ばれました。重陽宮は元代の北方道教に大きな影響があり、「天下祖庭」、「全真聖地」という尊称を持ち、山門の上方には、元代皇帝の賜った金扁額が、現在でも明瞭に見ることが出来ます。
元代の頃、重陽宮殿堂の建物は合計約5048間あり、東側が東甘河まで、西側が西甘河に達し、南側が終南山に至り、北側が渭河に近く、最盛期は、全真道の万人にも近い教徒がいつもここに集まりました。明清以後、建物がしばしば破壊され、宮院の規模は縮小していきました。現存の霊官殿、七真殿が清同治十三年に再建され、その規模は元代に比べ小さいです。元代盛んだった大重陽万寿宮の碑石、石棺のほか、いくつかの巨大な基石と、残りの屋根一点が保存されました。それらから当時の宮殿の広大な勢いが垣間見られます。トップへ
山西省(艹/丙)城県に位置する永楽宫は元代全真教の源流の一つです。龙虎殿、三清殿、純陽殿と重陽殿は保存されています。元朝から明朝の初めまでに作られた精美な道教の壁画は、430㎡余の広さとその美しさで有名になりました。永楽宮に残された壁画は壁画芸術の宝ともいうべき、敦煌の壁画と同じようによく知られた芸術品です。永楽宮の壁画は歴代の壁画の優れている点を受け入れたものです。唐朝の宗教壁画は人物の表現は大胆で厳しいだけでなく、繊細な筆致、生き生きとした姿と高尚な勢いという特色を持っています。永楽宮の壁画は特にその特徴、具体的にいえば吴道子を代表とした唐朝の正統的な特徴を受け継ぎました。それで、宗教人物画の最盛期と言われる唐朝の壁画を研究するため基礎になりました。でも、宗教が衰えていくことに従って宗教に関する壁画の勢いもだんだん消えてしまいました。上位にいた人物画は、民間に入って巻物になりました。その隆盛も時間の流れの中で消えてしまいました。 トップへ
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