龍門石窟
龍門石窟は中国の石窟芸術の宝庫のひとつであり、中国河南省洛陽市の南方13キロ、伊河の両岸にある龍門山と香山の丘にあります。龍門石窟は、北魏の孝文帝が洛陽に遷都したころから造営が始まり、東魏、西魏、北斎、隋、唐5つの時代を経過して造られた石窟で、南北1Kmにも及びます。現存の洞窟は2345窟、石像は10000体を超え、彫刻板など2800枚にのぼります。造営期間が非常に長くて、経過した時代も長いため、大量に実在する石窟や石像と文字資料を残すことができました。それらは各側面から中国古代の政治、経済、宗教、文化など様々な分野の進展を反映しています。中国石窟芸術の創出と発展に偉大な貢献をしました。2000年、竜門石窟は、世界文化遺産に登録されました。
龍門石窟の一番の見所と呼ばれる奉先寺石窟は、龍門石窟群の中で一番規模が大きく、唐代、則天武后の統治時期に作られたものです。 内部の仏像はリアルな彫刻で、優雅な表現と魅力を兼ね備えています。
ほかにも、北魏の「古陽洞」、「賓陽洞」、「蓮花洞」と唐代の「潜渓寺」、「万仏洞」、「看経寺」などが代表的な石窟です。
莫高窟
紀元前3世紀、阿育王によって仏教が広められ、仏教に関する芸術はインドから広まってきました。紀元前1世紀、ギリシア式仏教芸術はガンダーラを皮切りに、世界各国で広く知られました。二世紀、アフガニスタンから中国新疆に伝わり、南路の民豊漢墓で漢代ギリシア仏象と中国龍の模様が発見され、また、諾羌の寺院の遺跡で須大本生の物語を描いた絵が発見されました。月日が経つと共に、龟兹特有の菱形物語絵が生じました。龟兹芸術は、漢絵をベースに、インド芸術が含まれながら、アフガニスタンからの影響を受けて融合した西洋スタイルの芸術です。
敦煌の石窟芸術が始まったばかりの頃、表現された内容殆どは仏陀の説法や釈迦の生涯――仏教宣伝や善行について―本生物語、仏陀が衆生に悟りを開くことに関する事績―因縁物語などでした。莫高窟は、建築、塑像と壁画という三つの芸術スタイルの見事な結合と融合でした。現存する最大規模の仏教芸術宝庫でもあり、1991年「世界文化遺産」に認定されました。莫高窟は十数の時代においての東西文化の交流と融合を体系的に記録しており、東西文化の芸術交流の原点はここにあります。
雲岡石窟
雲岡石窟は中国北部の山西省大同市街の西方16キロメートルの武周山南麓に位置します。石窟が初めて掘られたのは北魏興安。
二年(西暦453年)の頃で、北魏の首都が洛陽に遷都される(西暦494年)前にほぼ現在の形になっています。石窟肖像作りの雲岡石窟期間は正光年間(西暦520~525年)にも及びました。石窟は山肌の石壁に作られたもので、東西1キロにわたります。雲岡石窟は石像の雄大さと内容の豊富さで現在でも高い芸術的魅力を持ちます。現存のメインの洞窟は45窟、石像は51000体にのぼり、最大の石像は17メートルもあり、一番小さいの数センチしかありません。
石窟の中には仏、力士などの石像があり、どれもこれも今にも動き出しそうな躍動感に満ちています。塔の柱にも繊細で巧みな彫刻が施されています。秦漢(西暦前221~西暦220年)の現実主義芸術の粋を継承しながら、隋唐(西暦581~907年)のロマンティック主義色彩も巧まれています。
雲岡石窟は中国最大の石窟の一つであるばかりでなく(他の2つは洛陽の龍門石窟と敦煌の莫高窟)、世界的にも有名な石窟芸術の宝庫です。雲岡石窟は中国古代の人々とほかの国の人たちと友好的な往来を示す有効的な歴史的遺産であり、伝統彫刻的には、インドやペルシャ風の芸術の流れを創造的に取り込んだ作品でもあります。
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