大象山石窟-石窟芸術と古代建築文化の見事の融合
甘谷大象山は石窟芸術と古代建築文化が見事に融合されており、宮殿と石窟が各々、自然と並んでいます。建築物の隅々までが伝統的な古代建築芸術品になっています。壁には自然を描いている絵や書があり、古代の造形芸術の独特な風格を表しその名を世に知らしめています。大象山石窟は有名な天水麦積山石窟から東に100キロのところにあります。西に40キロのところには武山水帘石窟があります。この三つの石窟は地理的に近く、また歴史背景が同じため互いに影響を及ぼし、融合しあって現在の甘肃東部仏教石窟寺芸術を作り出しています。
甘肃大象山は天水市甘谷県県城周囲に位置しています。そこは正面から見ると旗のようで、また横から見ると竜のような山があり、昔は文旗と呼ばれ現在では大象山と呼ばれています。山の崖に大きな洞窟があり、中には石で作られた仏像があります。この仏像は北魏に作られ、四つの王朝、300年を経て、今に残っています。
洞窟の両側には山に沿って長い回廊があり、まるで帯のようです。石窟間はこの回廊でつながっておりその景観は壮大です。現在では二十二室の石窟があり、ほとんどの部屋は四角形です。正面の壁には大きな円形の石窟と高い壇があり、さらにはお坊さんが修行する石窟も設けられておりこれは全国的にも稀です。
無量山石窟は寧夏回族自治区彭陽県の北西25キロに位置する川口郷田庄村北源組にあります。バックに無量山、石峡河へ面する風景はとてもうるわしいです。
山腹の岩壁を掘削して造られた石窟が2室あり、その間の距離は約50メートルで、北を向き、石峡河に沿って東西に並んでいます。
東窟は1032年「宋朝天聖十年」に造営されました。洞窟の天井はドーム状で、奥行きは0.8メートルほどです。全部で五体の仏像が安置されていますがその中の四体は完全な状態を保っています。三体の本尊坐像が並んでおりこれらの高さは共に2.1メートルあります。岩壁に文字が刻まれている箇所は2つで、左側には「天聖十年」、右側には「張行○○」とあります。
西窟の仏像は1035年に作られたもので、全部で20体が安置されており、一尊仏や二菩薩、十六羅漢、一護法像が彫られています。左から右まで1~20番の順に仏像全体は地面から0.9メートル、長さ8.2メートルの岩壁に1列に並んでいます。最も高い仏像は0.8メートルで、低いもので0.38メートルです。また保存状態の良いものは7体あります。
地面から約2.6メートルの所に「景祜二年四月十二日劉緒等公修羅漢人」と刻まれた銘があります。1985年、無量山石窟は県級文物保護単位とされ、また、1988年自治区級保護単位になりました。1991年、彭陽県の人たちは石窟の周囲に「文物古跡記念樹」を400本植樹しました。
クムトラ石窟は、新疆巴音郭楞モンゴル自治州庫車県の西南側から30キロメートル離れたところに位置し、4世紀頃から11世紀頃まで作られたと言われています。番号を付けられた洞窟は112窟あり、南から北まで蛇行しながら続き、750メートルもの長さがあります。現存の壁画の面積は数千平方メートルで、主に大乗仏教の内容が描かれ、中でも唐代に造られたものが多く、彫塑も少し残されています。また、たくさんの龟兹文、漢文、回鹘文の前書きがあり、龟兹文化を研究するための大切な参考資料とされています。クムトラ千仏石窟は、全国の重点文物保護機関と認められています。
庫車(クチャ)は、古くは龟兹と称され、旧西域最大の仏教国で、中国で最も多くの石窟群があります。クムトラ石窟の壁画の芸術特徴は、時間的に中原地区の仏教芸術の先駆であり、空間的には、世界四大古国やギリシア、ローマの文化芸術の集結なので、西洋文化と中原地区文化からの影響のみならず、当地独特の芸術スタイルがあります。古龟兹人はインドなどの外来芸術を吸収して、自分達の民族性溢れる卓越した芸術を作りました。壁画の人物の姿は、優美で生き生きとしていて、古龟兹人の知恵と才能が覗えます。石窟の特徴とスタイルは中原仏教芸術に近く、「西方净土」、「東方薬師」、「法華」、「弥勒」などの大規模な仏教物語の壁画です。
一つの山だけで開削して作られた中国の多くの石窟と違って、须弥山石窟は8座の山を開削して作られています。その構造は特殊で、山々の間にある谷には階段と橋が設置されております。今日まで150あまりの石窟が保存され、全長2キロメートルの8座の山峰に分布し、南から北まで大仏楼、子孙宮、円光寺、相国寺、桃花洞、松树洼、三个窯、黒石溝の8区があります。北魏の石窟は子孙宮に集まり、第14、24、32、33窟が代表的あり、多くは3~4.5メートルの広さの中心柱窟で、柱の四面は数段階に分けて開削し、その後、塑像が作られています。第32窟の柱は7階まであります。第24窟の柱の上方には、仏教の伝説と物語が彫刻されています。
現在保存されている洞窟は100数箇所あり、前山にある千仏洞、万仏洞、後山にある古仏洞、千仏洞は有名です。 千仏洞は高さ3.6m、幅3.94m、長さ3.8mの中心柱式の建物です。天井及び壁に画かれた鮮やかな壁画は、素朴で飾り気がなく、完璧に保存されている西側の壁、南側の壁に千仏の画像を描いています。中心柱は三段に分けられ、下段は方形ベース、上の二段は円形の龕の彫刻、奥に仏像が彫刻してあります。仏壇の外で彫刻した菩薩は、体格が壮健で素朴です。千仏、七仏、説法図、伎楽天、供養人などをテーマに、洞窟の壁及び天井はカラー壁画を描いています。洞窟の天井は飛んでいる伎楽天を描き、面積の大きい壁に千仏を描いています。また、一体の仏と二体の菩薩が仏法を説いている姿は、中央に描いています。下部は供養人の姿も入っています。色の明暗比較、及び人物の立体感を強調することができるように、西域のぼかし染めという描き方を用いて壁画を作成してあります。
涼州風石窟の範囲に位置する文殊山石窟は、中国仏教早期の遺跡として、十六国時代の仏教芸術のみならず、河西地区と西域の仏教の建物・芸術関係への研究にとり貴重な研究資料です。2001年6月25日、文殊山石窟は、北朝から西夏時代の間の文物として、国務院に第五回目の全国重要文物保護リストに記入されました。
鐘山石窟は、万佛岩、普済寺、大普済禅寺、石宮寺とも呼ばれています。陝西省子長県の西側から15キロメートルの鐘山の南麓にあり、敷地面積が120万㎡あり、僧徒が五百人以上います。中国西北の仏教伝播の重要な発祥地の一つです。鐘山石窟は、西晋太和年間に建てられ始め、唐、宋、金、元、明、清など千年余りを経て、建て上げられました。文献によると、全部で18の窟があるとされていますが、そのうち発掘されているのはたった5つです。
鐘山石窟の歴史は中国四大石窟よりさらに長く、中国で一番古く、また世界で類を見ない石窟群です。芸術的価値は、ミロのビーナスと双璧をなすとまで言われています。国内外の専門家からは「第二敦煌」と賞賛され、全国重要文物保護単位に属しています。
石窟は山に建てられ、南に直面しています。東は清風明月劇場に接し、南には秀延河に面しており、西には安定故城があり、シルクロードでは必ず通らなければならない道です。石窟の周りには古塔や寺、建築物が数多くあり、雄壮で壮大です。参拝も盛んで、「人間聖地」と賞賛されています。1988年に全国重要文物保護単位に認定されました。
清道光の「安定県志石宮寺重修の碑」によれば、昔ここには中殿、十王殿、明王殿、金剛殿が建てられており、また万仏楼、鐘鼓楼、三官楼、観音閣と住持の寺院もあったとのことです。しかし、戦乱で正殿石窟以外は全部破壊されてしまいました。今、発掘された5つの石窟の中で、一番状態が良いのは中窟です。窟内で仏像が万余りあるため、万仏岩とも呼ばれています。
天梯山石窟は中国石窟の始まりでありながら、中国石窟仏像の中にある最高とも言える大仏像を安置しています。そのうえここは中国人参果物の産地であり、『西遊記』にある人参果物が育つ万寿山とは、まさに武威天梯山そのものです。
天梯山石窟は中国で早期に掘削された石窟の一つであり、中国の初期の石窟芸術の代表で、雲岡石窟と龍門石窟の源であります。そして中国の仏教歴史上に重要な地位を占め、今では1580年余りの歴史があります。
現在、天梯山石窟にはたった3層しか残っていません。大小洞窟が17室、その中のひとつ、規模の大きな洞窟は高さ30 m、幅19m、奥行き6 mで、中には高さ28m、幅10mの釈迦牟尼立像1体が水に向いて立ち、右腕を前へ伸ばし、前方を指し、巍然として正座しています。釈迦像の両側に文殊菩薩、普賢菩薩、広目天王、多聞天王、迦葉、阿難等6体があり、その姿は生き生きとして、凜々しいです。石窟内の南北壁に大きな壁画が描かれています。南壁の上部には雲に覆われる蒼竜、中部には象とニホンジカ、そして象が煙と炎で光っている経文を脊負っています。下部には猛虎と樹木花卉が描かれています。一方で北壁の上部には蒼竜と二つの虎、中部には白馬、墨虎とインドボダイジュ、白馬は光っている経文を脊負っています。下部には牡丹花卉が描かれています。壁画全体は筆遣いが清新で生き生きとし、色合いが鮮やかで美しいです。
2001年、天梯山石窟は第五回の公布で国家重点文物保護単位と承認されました。これにより石窟の観光スポットには天梯山荘と石窟陳列館が建てられました。
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