現在昆明と呼ばれるこの地域は、[シ真]文化の発祥地で、3万年前の旧石器時代には、すでにデン池の周りに古人類が住んでいた。
紀元前109年、前漢の武帝は昆明を中心に益州郡を置き、デン国王に金印「デン王之印」を与えた。
蜀(221~263)の時、諸葛孔明が兵を率いて南征し、益州郡を建寧郡に改めた。
晋以降、雲南東部は、すでに強大な勢力を持つ烏蛮系注の爨サン氏の手中にあった。
注:チベット系の騎馬牧畜民で、奴隷制社会を形成。イ族の祖先と言われる。
隋になってさらに昆州と改めた。7世紀、すでに雲南西部[シ耳]海周辺には6つの小国-六詔-があった。707年、その中の蒙舎詔が、[シ耳]海地区を統一して、南詔国を建てる。唐は南詔王皮羅閣を雲南王にした。やがて彼は機に乗じて、デン池地区の爨氏を破り、全雲南を手中に収める。昆明に拓東城を築いて、昆明は都として栄えた。937年、臣下の段氏が、大理国を建て、南詔からの境界を受け継いだ。
1275年、モンゴル軍が大を滅ぼすと、76年雲南中書省を置き、中慶路を設けて、昆明県を中慶路の首府とした。この時雲南統治の中心が大理から昆明に移り、現在に至る。
明朝は中慶路を雲南府と改める。清は、「改土帰流」政策をとり、少数民族地区にも流官を配して、中央集権を強めようとした。1911年、辛亥革命に前後して、昆明に「重九起義」がおき、清の雲南統治、雲南府を倒し、昆明県を省都とした。 日中戦争では、デン軍が前線に赴く一方、内地や沿海部の工場、機関、学校、金融機関などが昆明に移り、抗日戦の大後方として大きな役割を果たした。
1949年、平和裡に解放され、今日に至る。