玉門関
玉門関と言うと、広く知られている王之渙の詩句「涼州詞」という唐代の名作があります。多くの人は、詩句に秘められた悲壮で物寂しい気持ちに深く感動し、伝説が多い、歴史の長いこの関所に憧れます。
歴史
玉門関は、シルクロードが北道に通るための要衝です。前漢、張騫が使者として西域に赴いて以来、中原地域のシルクや茶葉など、さまざまな品物は、関所の玉門関を通して、次から次へと西域の国々へ運ばれて行きました。と同時に、西域各国の葡萄や瓜、果物などの特産品および宗教、文化も相次いで中原へ伝わりました。当時、玉門関地域は、ラクダ隊商や人、馬の声で賑わい、キャラバンの姿が絶えず、使者が往来し、極めて繁栄した光景でした。
玉門関は、陽関と同じ時期に建てられたもので、前漢には、玉門都尉の治所でした。王莽が帝位を簒奪してしばらく、シルクロードが中断し、玉門関が封鎖されました。その後、後漢の建武帝から延光帝までの百年余りの時期に、シルクロードは数回に渡り、開通されたり、封鎖されたりしました。そして、後漢になり、玉門関は玉門都尉の管轄に属されました。両晋南北朝の時、戦争が相次ぎ、また、中国と西域各国の交流するための海のシルクロードが日増しに盛んになり、シルクロードはだんだん寂れてきました。小方盤城の城門にきらきらとした玉石が鏤められ、関楼が一層雄大になり、それ以来、名前を「玉門関」と改められました。
観光スポット
玉門関(別称:小方盤城)は、敦煌から90キロ離れた北西の丘にそそりたっています。城は方形をしています。周囲の城壁は、状態良く保存され、粘度の高い土壌で建築された物です。また、西の門と北の門が開いています。城壁は高さ10メートルにも達し、上の部分は幅3メートルで、下の部分は幅5メートルです。玉門関の頂上に上って景色を眺めると、周囲に点在する湿地帯、交錯している谷あい、くねくねと続く長城、佇んだ烽火台、まっすぐ伸びた胡楊(柳の一種、強い生命力でよく知られている)、清い泉など、すべての絶景が目に映ります。また、花や柳などの草木、風に揺れている葦は、玉門関の雄姿と相まって、人々の心を魅了し、懐古の念をはじめ、様々な思いを起こします。