明の陳誠が書いた「西域番国誌」(さいいきばんこくし、明朝永楽12年、西域見聞録。)という書の中で、「土爾番(トルファン):窪んだ地」という呼称が初めて現れました。
古代では、トルファンは「姑師」と呼ばれました(「史記・大宛伝」)。シルクロードの最も重要な拠点の一つでした。前漢元帝元年(紀元前48年)トルファンに戉己校尉を設置して屯田(とんでん;兵士による開拓・駐屯の制度)を行いました。
後漢和帝3年(紀元前91年)戉己校尉の駐屯地が、交河城(トルファンから西10kmのほどの所)から高昌城(トルファンから東45kmのほどの所)へ移転しました。晋代、高昌郡が設置されました。北魏ではトルファンが「蠕蠕」(「芮芮」あるいは「茹茹」と呼ばれました。)に属して、高昌国と呼ばれました。
高昌を征服した唐は、この地に安西都護府(あんざいとごふ)を置いて、「西州」と名づけました。唐末に吐蕃の支配下となりました。宋代になると、ウイグルと呼ばれました。元代には、ウィグル都護(亦都護とも呼ばれる。テュルク語で「幸いの主」とも「神聖なる吉祥」とも解釈されています。)を置きました。元末・明初め、柳城(現在ピチャン県のルクチン)、火州、トルファン三部を置いて、それぞれは万戸府「达鲁花赤」(官職の名前)を置きました。
清代乾隆44年(西暦1779年)トルファン監督大臣を置いて、広安城(現在の老城)を築き始めました。光緒12年(西暦1886年)トルファン直隷庁(直隷庁、省に直属する行政機構)を置いて、迪化府(ウルムチの旧称)に属して、現在のトルファン、ピチャン、トクスンの三つの県を統治しました。
民国2年(1913年)トルファン直隷庁から、トルファン県に名を変えました。1984年12月、トルファン県からトルファン市に名を変えました。