早くも70万年前には広西には人類が存在していました。歴史遺跡の調査からここの古代人は1万年前には初期段階の農耕を始めていたことがわかりました。
最初の王朝に次いで秦の始皇帝(221~207BC)は中国南部の嶺南(現在の広西チワン自治区と広東省周辺)を統一していました。そして広西は桂林府と象府に分けられこの時初めて広西は中国の領土の中に示されました。
食料の供給と軍隊の資金を考慮するために皇帝は桂林の興安に人口の運河である霊渠運河を造ることを決めました。運河は珠江の水利システム(漓江も含む)と揚子江の水利システムをつないでいます。今ではこの運河は労働者の功績と古代の広西の人々の知恵を称える興安の人気のある観光地になっています。
漢(BC206~CE220)の時代には広西は反逆者によって南越王朝の支配下になっていましたが幸運にも後の漢武帝(BC116)は反逆者を追い出し広西を漢王朝の9つの府の1つとしました。西漢(BC207~CE25)時代に合浦(真珠の生産で有名。現在の北海市にある県)は「海のシルクロード」の出発港でした。
唐(618年~907年)の時代の後、広西は文化と経済両方の分野で発展してゆきました。そして宗の時代、1363年には初めて行政区画となりました。
歴史上の出来事で世界的にも有名な太平天国の乱は、封建時代の小作人と地主の間の争いが激しくなった清朝(1644年~1912年)の時代、1840年のアヘン戦争の後に起こりました。1843年に反乱のリーダーである洪秀全が広東省花県で拝上帝会(太平天国)を立ち上げました。1851年1月1日には洪秀全は広西の桂平県金田村に拝上帝会をつくり清朝支配の多くの町を侵略してゆきました。反乱は20年ほど続き18の領地を支配し、中国の歴史の中でこの反乱は小作人の独立のための反乱の絶頂に達していました。最終的に反乱は失敗に終わりましたが反乱のリーダーである洪秀全は今なおも英雄として語り継がれています。そして彼の偉業は反乱の発祥の地に残っています。
日清戦争が勃発後、広西は日本からの侵略者と戦う重要な所でした。軍の多くの指導者は広西出身です。彼らの勇敢さと賢明さは中国を侵略者から守り新中国の建国へと導きました。