「敦煌」の名前は、後漢の学者--応劭により、「大にして盛ん」と言われていますが、実際には紀元前からこの地方を支配していた月氏の言葉の音訳のようです。紀元前2世紀前半に匈奴の冒頓(単于)が屈起して、月氏を攻め、この地方は匈奴の支配下になりました。漢の武帝時代、西域に対して積極的に遠征を行い、この地方に敦煌郡を設置しました。敦煌郡の設置年代について紀元前111年と言われていましたが、現在、紀元前92年ごろの李広利将軍の大宛(フェルガナ)遠征の時に設置されたとする説を主張している学者が多いです。その後、西方からの汗血馬、ブドウ、ゴマなどの産物がこの地に運ばれ、漢の西域経済の中心地となりました。また経済、軍事における重要な拠点です。
当時の人口が3万8千ほどと言う記録があり、現在の3分の1ほどですが、ほとんど漢政府により送り込まれた窮迫農民や犯罪者でした。南北朝時代に、西涼国の首都となり、その後、西涼は北魏によって滅ぼされましたが、西域に対する拠点としての重要さは変わりません。
北宋時代、タングートが力をつけて西夏国を建て、この地方を支配しました。その後、西夏はモンゴル帝国によって滅ぼされ、元朝の支配下に入ります。その頃、中国と西方を結ぶルートが陸上シルクロードから海上シルクロードへと移行し、各時代のシルクロードの交通の要地としての価値を失い、寂れた町へとなりました。